潮干狩りシーズン到来。
でも、アサリは全国的に激減。

直近のアサリの県別生産量(2019年)を見て驚きました。


1位
愛知
2位
北海道
3位
福岡


「おや?」と違和感を感じるのではないでしょうか。「1位愛知はわかるけれど、北海道に福岡? アサリといえば千葉、熊本、静岡あたりなんじゃないの?」

ですよね?


全国のアサリ漁獲量は1983年の約16万㌧をピークに減少し、87年に10万㌧を切ると、94年に5万㌧、2012年に3万㌧を切り、16年にはついに1万㌧も採れなくなってしまいました。


上位3県の漁獲量を15年前と比較してみましょう。

●令和元年(2019)
1位
愛知
3,880t
2位
北海道
1,360t
3位
福岡
1,100t
全国合計
7,976t
●平成16年(2004)
1位
愛知
11,867t
2位
千葉
8,644t
3位
熊本
4,164t
全国合計
36,589t


15年で約8割減。あちこちでアサリが不漁というニュースは耳にしていましたが、ここまで全国的に激減しているとは。どおりで魚屋さんにアサリが並んでいないはずです。


産地ごとにみると、長年1位を維持している愛知ですが、04年と19年を比べると3分の1に減少。静岡は4,127㌧から872㌧と約5分の1になっています。


熊本も4,000㌧から217㌧と約20分の1にまで減産。千葉は年ごとの増減が激しいのですが、8,644㌧が、現在は65㌧。なんと133分の1です。


これは大変な事態です。


ランクインした2位の北海道は、04年1,630㌧で、ずっと横ばいでしたが、他県の生産量が激減したことで、押し上げられるように浮上した感じです。


木更津のアサリ漁師に聞いたところ、ハマグリ20個に対し、アサリは2〜3個しか採れないのだとか。1㌢に満たない小さなアサリはたくさんいるのに、大きいのがいないのだそうです。


アサリの主な減少原因については以前より、埋め立てによる干潟の減少、水質・底質の悪化、貧酸素水塊などが挙げられていました。また近年では、採りすぎ、ナルトビエイやヒトデ、ウミグモなどによる食害、貧栄養による餌不足などの要因も指摘されています。


それでもここまで減少してしまったということは、有効な対策が打てなかったということなのでしょうか。


漁師や水産関係者も手をこまねいていたわけではありません。全国のアサリ産地では、長年にわたりアサリ資源の回復のため様々な取り組みを行っています。


例えば、漁獲制限(出漁日数や一日あたりの漁獲量などに上限を設定)や禁漁区の設置、エイやツメタガイなどの外敵駆除、漁場環境の改善、増養殖技術の開発など、その内容は産地の状況に応じて多岐にわたります。


しかし、こうした努力にもかかわらず、多くの産地でアサリは減り続けています。資源の回復はまだ道半ばのようです。


国内生産量が減少したことで、1980年代後半からアサリの輸入が本格的に始まり、2019年には約3万6000㌧のアサリが中国・韓国から輸入されています。それら輸入アサリの出荷や食品製造では、「中国産」や「韓国産」などの原産地表示が必要です。


一方、輸入アサリを国内の海に撒き、長期間蓄養をした場合は制度上、国産表示が可能です。スーパーなどで売られる生鮮アサリはほとんどが「国産」ですが、上記のように元は輸入アサリという場合があるのです。潮干狩り場で採れるアサリも同様です。


それにしても、全国でアサリがここまで減ってしまっていること、もう少し話題になってもいいと思うんですけどね?

江戸時代の庶民の暮らしを
変えたイワシのちから

ジメジメした梅雨は憂鬱な季節ですが、魚好きには楽しみな季節でもあります。皮と身の間にたっぷり脂ののった「梅雨イワシ」「入梅イワシ」のシーズンだからです。刺身、酢じめ、塩焼き、生姜煮……、毎日食べても飽きません。栄養も満点です。


栄養満点のイワシは食用としてだけでなく、養殖魚の餌や畜産飼料として現代でも利用されています。江戸時代、イワシを砂浜に並べて天日干しした「干鰯(ほしか)」は綿花や藍などの栽培に欠かせない肥料として高値で取引きされていました。


江戸時代に庶民の衣服の素材がそれまでの麻から木綿に変わったのも、木綿の材料となる綿花の生産量を飛躍的にアップさせたイワシの栄養パワーがあったからです(それまで使われていた人糞尿、馬糞、牛糞由来の肥料は、窒素は多いものの、リン酸・カリが足りませんでした)。


布団に綿を入れるようになったのもこの頃です。着心地がよく丈夫で、保温性に優れ、加工もしやすい木綿は、藍によく染まるという特徴も持っていたことから、河内木綿、播州織、久留米絣(かすり)など藍染の綿織物が各地で発展しました。


また、大釜で煮たイワシを木製の圧搾器に入れて搾り取った「魚油」は、行灯(あんどん)の燃料として用いられました。


魚油は臭いがするのですが、ロウソクや菜種油などの植物油よりも安価だったことから低所得者層に重宝され、この魚油による明かりは庶民の夜の過ごし方を一変しました(魚油の搾りかすは「〆粕(しめかす)」と呼ばれ、これも肥料になりました)。


干鰯が育てた綿は凍える冬に温もりを与え、藍は手工業を起こし、魚油は闇夜を明るく照らしたのです。いわば江戸時代、イワシが庶民に文明開化をもたらしたともいえるでしょう。


干鰯などの産地として有名だったのが千葉県の九十九里で、室町時代末期、ここに紀州の漁民が移り住み、地引網によるイワシ漁を伝えたといわれています。干鰯・〆粕・魚油は船で江戸に運ばれ、九十九里に富をもたらしました。


干鰯の流通量が増えた元禄時代、江戸・深川に干鰯場と呼ばれる取引拠点ができました。深川は仙台堀・油堀(現・首都高深川線)・平久川・大島川(現・大横川)といった運河が張り巡らされた、舟運に優れた場所でした。


深川に集められた干鰯は、綿作が盛んだった畿内(特に摂津・河内・和泉)、藍の最大の産地である阿波など、主に上方へ送られました。


深川は明治になっても米・材木・肥料問屋の町として賑わい続けました。日本を代表する映画監督、小津安二郎は明治36年、深川の生まれで、干鰯問屋の「湯浅屋」は小津の本家にあたります。


ここからは想像なのですが、子ども時代の小津少年にとって、近所を流れる運河の船着場や艀(はしけ)船は絶好の遊び場だったのではないでしょうか。地面よりも一段低い堀から見上げると、見慣れた街並みも新鮮に映ったことでしょう。


小津映画の最大の特徴ともいえるローアングルは、そんな幼少期の体験が無意識に表れているのではないでしょうか……といっても小津安二郎関連の本を読んでも、そんな説を書いている人はいないのですが。


明治の中頃になると、リン鉱石に硫酸を加えた化学肥料が登場します。また、政府の殖産興業政策で、紡績工場が建てられ、アメリカから安い綿花が大量に輸入されるようになりました。


こうして近代化が進むとともに、海と畑がつながり栄養分が循環していた日本の農業は大きく姿を変えていったのです。


いかがでしたか。イワシってすごいなあ……と思って食べる梅雨イワシ。最高です。

『最後の晩餐』と東西の
天才クリエーターとウナギ。

土用の丑の日にウナギを食べるようになった起源には諸説がありますが、最もポピュラーなのは、夏にウナギが売れなくて困っていた鰻屋から相談を受けた平賀源内が、「丑の日に『う』の字がつく物(うどん・ウリ・梅干しなど)を食べると夏バテしない」という民間伝承にヒントに「本日 土用丑の日」と大看板を出すようにアドバイスしたのが始まり、というものでしょう。


平賀源内といえば、発明家であり蘭学者であり、画家、戯作者、陶芸家と多才な顔を持つマルチクリエーターで、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼ばれています。


そのダ・ヴィンチの代表作のひとつにキリストと12人の使徒を描いた大作『最後の晩餐』があります。20世紀末に行われた大規模な修復作業の結果、『最後の晩餐』で描かれた食卓の皿に盛られていたのは魚料理であることが判明しました。


しかも、興味深いことにその魚料理は「ウナギのグリル、オレンジ添え」ではないかという研究報告があるのです。製作当時のダ・ヴィンチの残したメモにも頻繁にウナギの購入履歴が残っているのだとか。


源内とダ・ヴィンチ、ふたりの天才クリエーターがウナギに関わっているのは面白いですね。


でも、なぜダ・ヴィンチは『最後の晩餐』のメニューに「ウナギのグリル、オレンジ添え」を選んだのでしょう。推理してみました。


『最後の晩餐』に並ぶ12人の使徒の職業をご存じでしょうか。ペトロ(ペテロ)&アンデレ兄弟、大ヤコブ&ヨハネ兄弟、フィリポ、トマスの6人は漁師でした。


漁師率の高さ、ハンパないですね。


彼らの漁場は現在のイスラエル北部にあるガラリヤ湖。日本の霞ヶ浦と同じくらいの大きさの淡水湖です。


ガラリヤ湖で獲れる代表的な魚といえばティラピアで、地元ではキリストの最初の弟子にして使徒のリーダー、ペトロの名から「聖ペトロの魚」 (St. Peter’s Fish)と呼ばれています。

ちなみにヨーロッパで「聖ペトロの魚」を表すSaint-Pierre(仏)、Pesce san pietro(伊)、Peters fisch(独)、pez de San Pedro(西)といえば、海の魚「マトウダイ」のことです。とするとティラピアは本家「聖ペトロの魚」でしょうか。


ティラピアは広く世界に食用として用いられている白身魚で、現在、中国、インドネシア、エジプト、バングラデシュなど各国で盛んに養殖されています。


キリストは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1-16:18)と言い、ペトロは漁師をやめ、布教の道へ進みました。聖ペトロの魚、ティラピアも布教するように世界で繁殖したわけです。


日本でも一時期、養殖され「イズミダイ」などの名前で流通していましたが、最近、流通している姿はあまり目にしません。耳にするのは、野生化したティラピアが環境適応力と生命力を発揮して、沖縄や鹿児島などの河川で猛烈な勢いで繁殖し、生態系にとって脅威になっているというニュースです。


脱線してしまいました。話をウナギに戻しましょう。最後の晩餐がなぜティラピアではなくウナギなのか。


キリスト教のルーツであるユダヤ教の正典、旧約聖書には「水の中にいる生き物のうち、ヒレやウロコのないものはすべて忌むべきものなり。汝らその肉を食うべからず」(レビ記11:10-12)と記されているようにエビ・カニなどの甲殻類やイカ・タコ・貝などの軟体動物といった、ヒレやウロコのない魚介類を食べるのはタブーです。


ウナギにはヒレもウロコもあるのですが、目立たないからでしょうか、食べてはいけないとされていました(魚類だとナマズやサメもNGです)。


ところがキリスト教の新約聖書では「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイ15:11)と「伝統や慣習で禁じられている物を食べたから汚れるわけではない。人を汚すのは、口から出る言葉であり、心の思いなのだ」と教え、食事の制約から人々を解放したのです。


いわばウナギ料理はユダヤ教との決別の象徴でもあるわけです。「ウナギのグリル、オレンジ添え」はダ・ヴィンチの考え抜いたメニューだったのかもしれません。

キープ ディスタンスを守る
マダコはコロナ時代のお手本。

日本ではタコのキャラクターといえば、口を尖らせ、頭にハチマキを巻いた姿で描かれたりしますよね。


実際あれは口でも頭でもないのですが、それはおいておくとして、ぐねぐねしたユニークな風貌からひょうきんな印象を受けるのは世界共通なのでしょうか。1960年代の代表的ロックバンド、ザ・ビートルズが歌ったタコソング「Octopus’s Garden」(アルバム『Abbey Road』に収録)もカントリー&ウエスタン調の陽気な曲です。


作詞作曲はリンゴ・スター。200以上あるビートルズの曲のなかで、リンゴがつくったのは2曲しかありませんから、とてもレアな楽曲です。


でも、この曲、楽しげなのに少し寂しい雰囲気も漂っているのはなぜなのでしょう。


1967年、ビートルズを発掘し、大成功を支えてきたマネジャーのブライアン・エプスタインが32歳の若さで突然、この世を去ります。


彼の死はビジネス面で混乱をもたらしたばかりでなく、4人の精神的なまとめ役がいなくなったことにより、メンバー間の摩擦・齟齬が表面化してきます。ポール・マッカートニーはバンドを仕切ろうとスタンドプレイが目立ち、ジョン・レノンはヨーコ・オノとドラッグに溺れ、ジョージ・ハリスンはインドの瞑想にのめり込み……。


あんなに仲のよかった4人がバラバラになり、うんざりとする険悪な状況が繰り返される日々。


1968年、いたたまれなくなったリンゴはレコーディングの途中でバンドを離脱します。メンバーでもっとも温和といわれたリンゴが、です。


ビートルズ解散まで残り2年。


リンゴが向かったのはイタリアのサルデーニャ島でした。このサルデーニャ島は「Insalata di Polpo」(タコのサラダ)が有名な地中海料理の本場です。「Octopus’s Garden」もこの島で誕生しました。


海底の岩陰にある「タコの庭」で愉快に暮らしたいな♫ という童話のような歌詞ですが(実際、この曲はのちに絵本『タコくんのおにわ』となり、日本でもピーター・バラカンさんの翻訳で岩崎書店から出版されています)、仲間の不協和音に耐えられなかったリンゴの内面が投影された曲ともいわれています。


リンゴがどこまでタコの生態に詳しかったのかはわかりませんが、独りぼっちのメタファーとしてマダコは最適なキャスティングといえるでしょう。


同じ頭足類でも、たいていのイカが海の比較的浅いところを集団で行動しているのと対照的に、多くのタコは繁殖期を除くと海底で単独生活をしています。


『タコの知性』(池田 譲/朝日新書)という本に面白いエピソードが書かれていたのでご紹介しましょう。


著者の池田さんは8匹のマダコを飼育しようと、大きな水槽の底に8個の蛸壷を一定間隔で並べておきました。タコを放つとそれぞれ1つの蛸壷に収まったのですが、やがて落ち着きのない1匹のタコが自分の蛸壷を時計回りに少し移動させたのです。


すると近寄ってこられた隣のタコは、距離が近いのを嫌がるように自分も時計回りに少し動きました。で、このタコがずれた先にいたタコもまた距離を取るように同じく少し移動。これが玉突きのように連鎖して、結果的に蛸壷の隣との距離は一定間隔に保たれた……というのです。


見事なキープディスタンス。いたずらに争わず、距離をとることで互いに居心地よい状態を確保する。動物の社会性というと群れや集団といった視点で語られますが、お互いを意識して一定の距離を保つというのも、ひとつの社会性の現れではないでしょうか。


ちなみにビートルズ解散以後も、リンゴだけは他の3人のメンバーと良好な関係を保ち、リンゴのソロ・アルバムの録音にはジョン、ポール、ジョージも参加しています。


マダコはかなり賢い生物です。いつでもきちんとディスタンスをとるマダコの生き方は、密を回避しなければならない時代のお手本といえるかもしれません。

日本の食文化を豊かにし、
維新の原動力にもなった昆布。

大河ドラマ『青天を衝け』、面白いですね。博多華丸さんの西郷隆盛は斬新なキャスティングでしたが、なかなかのハマリ役です。


さて、薩摩藩は倒幕に向けて軍艦や大砲など大量の兵器をイギリスから買い付けたわけですが、どうしてそんなに潤沢な資金があったのでしょうか。


そもそも、江戸時代は大名が貧しくなる仕組みでした。貧しければ反抗できなかろうと、幕府は巨額な費用のかかる参勤交代や、河川工事などを押し付け、財力を消耗させました。


加えて、長く平和な世が続き、商業資本・貨幣経済が発達すると、自給自足を原則とする封建制そのものが大きく揺らぎ始めます。大商人や豪農が資本を蓄え、年貢米を財政の軸とする幕府や諸藩はデフォルトの危機を迎えました。


薩摩藩も例外ではありません。


薩摩藩は加賀百万石に次ぐ、七十七万石の雄藩と称していましたが、実高は半分の三十六万石程度しかなく、文政10(1827)年のころには500万両の借金を抱え、膨れ上がる利息で財政破綻寸前でした。


そこで薩摩藩のトップ、島津重豪(しげひで)は調所広郷(ずしょ・ひろさと)を抜擢し「10年間で借金をなくし、さらに50万両の蓄財をせよ」と命じました。どう考えても無茶ぶりです。


このほとんど不可能にみえる財政改革を調所は成功させました。財政改革の柱は下記の4本です。


①借金踏み倒し
金を借りていた商人から証文を預かると、すべて焼き捨て「無利子250年払い」、つまり元本だけを250年かけて返済すると一方的に契約変更。

②黒砂糖専売の強化
薩摩藩の目玉商品である黒砂糖増産のため、奄美大島・喜界島・徳之島の水田をすべてサトウキビ畑に変え、15歳から60歳までの男子を強制労働。

③密貿易
鎖国政策とはいわば幕府による貿易の独占。薩摩藩は制限付きで琉球を通じた清国との貿易を許されていたが、その範囲を大きく逸脱して密貿易

④贋金づくり
江戸から貨幣の鋳造技術者を呼び寄せ、天保通宝、琉球通宝、万延二分金などの貨幣を大量に偽造。


借金の踏み倒し、奴隷労働、密輸、通貨偽造……。なりふり構わぬ強引な方法で藩の財政を立て直した調所は1848年に他界します。幕府から密貿易の嫌疑を受けたために藩に迷惑がかからぬように服毒自殺したとも、誰かに毒を盛られたともいわれています。


享年73。黒船が来航する5年前のことでした。


財政再建に成功した調所ですが、御家騒動による派閥争いも絡み、若い西郷は調所を激しく嫌ったそうです。しかし、調所の作り上げた財源が、のちに倒幕の軍資金になるのですから皮肉なものです。


ところで③の密貿易。いったい薩摩藩は何を中国に売り、何を仕入れていたのでしょうか。


日本の物産品で人気があったのは俵物三品と呼ばれた煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)。そして昆布などです。なかでも蝦夷地で豊富に採れる昆布は、中国内陸部の風土病、ヨード不足による甲状腺肥大の特効薬として重宝されていました。


一方、中国からの輸入品で最も利益が出るのが麝香(ジャコウ)、竜脳(リュウノウ)、牛黄(ゴオウ)など「薬種」と呼ばれる漢方薬の原料でした。


昆布は薩摩では採れません。仕入れ先として薩摩藩が目をつけたのが、北前船で蝦夷地の昆布を大量に扱うとともに、全国に漢方薬の販売網を持っている富山の薬売りでした。


富山の薬売りにとっても、昆布は売れるし、薬の原材料も仕入れることができるのですから好都合な取引です。こうして北前船で財を成していた富山の売薬商と薩摩藩がwin-winの関係で密かに結びついたのです。


明治期に入り、蒸気船が登場し、鉄道や道路が整備されるとともに北前船は消えていきました。しかし、北海道〜富山〜鹿児島〜沖縄と続いた昆布ロードのなごりは今でも見られます。


ご存じのように昆布は各地の食文化に溶け込み、北陸の「とろろ昆布」「昆布巻かまぼこ」、鹿児島の「サバの昆布巻」、沖縄の「クーブイリチー」と、独自の昆布料理を生み出しました。


それだけではありません。現在、長期の低金利政策にともない地方銀行の再編が急務とされていますが、どこよりも早く、今から約20年前に誕生したのが「ほくほくフィナンシャルグループ」でした。


これは富山に本社をもつ北陸銀行と北海道が基盤の北海道銀行という、地理的に離れた銀行間の極めて珍しい経営統合でした。この背景にも昆布ロードが育んだ富山と北海道の深い縁を感じます。


*主な参考文献
『近世海産物経済史の研究』(荒居英次/名著出版)
『薩摩藩 経済官僚』(佐藤雅美/講談社文庫)
『調所広郷』(芳 即正/吉川弘文館)
『薩摩燃ゆ』(安部龍太郎/小学館)
『斉彬に消された男』(台明寺 岩人/南方新社)

中世の都市国家の盛衰を左右した
沿岸に押し寄せるニシンの大群。

ここ2〜3年、関東の魚屋さんで生のニシンが並んでいるのをたまに見かけます。ソーラン節にも唄われているように、かつては日本でも大量に獲れた魚でした。


1897(明治23)年頃は年間100万トン近くも獲れていたのが、1955(昭和30)年以降は激減し、2015(平成27)年まで3000〜4000トン台に低迷していました。


ところが近年、2016年は7686トン、18年が1万2386トンと、ささやかながらも増加傾向にあるようですから、鮮魚売場で目にする機会は増えるかもしれません。内臓はとらずにウロコだけ取り、たっぷり塩をして冷蔵庫で1日寝かせて焼いた塩ニシン。おすすめです。


ニシンはヨーロッパでもおなじみの魚です。昔、世界史で「ハンザ同盟」を習ったと思いますが、今日はハンザ同盟とニシンについてのお話です。


まずはハンザ同盟成立の歴史を超ざっくりとおさらいしましょう。


476年に西ローマ帝国が滅亡すると、数世紀にわたりヨーロッパは暗黒時代が続きました。イスラム勢力が地中海に進出したことで物資の流通が止まり、自給自足の世界に逆戻り。人々は移動することなく、何世代にもわたり農奴として荘園で働いていました。


ところが、10世紀になり気候が温暖化すると農地の開墾が進み、栽培技術の改良もあいまって穀物の収穫が飛躍的に高まり、人口も増加しました。自分たちが消費するぶんと領主に納める以外の余剰作物は市場で売買されるようになり、自然と貨幣経済が発達しました。


すると、自分で穀物を育てなくても買うことができるようになり、農業以外の生活という選択肢が生まれたのです。こうして閉ざされた荘園を逃がれ、都市で商業や手工業に携わる人が増えていきました。


一方、1096年から約200年にわたって何度も繰り返された十字軍遠征により、大量の人と物資が動いたことで、長年、滞っていた遠隔地交易が動きはじめました。


農業の生産性向上、人口増加、十字軍遠征、イスラム勢力の後退……こうしたことを背景に、北イタリアではアジアの香辛料、絹織物、宝石などの高級品を扱う東方貿易が盛んになり、北ドイツでは北海・バルト海交易で毛織物、海産物、木材などを扱う北ヨーロッパ商業圏が誕生しました。


商業ルネサンスのはじまりです。


北ドイツの諸都市は独立し、諸侯と同等の地位・権利を得ます。そして、より力を持つために都市同士は結束し、13世紀初めにリューベックを中心にハンザ同盟が成立したのです。


前説が長くなってしまいました。


昔、学校でハンザ同盟の主力商品はフランドル地方の毛織物と教わった気がするのですが、『魚で始まる世界史』(越智敏之/平凡社新書)によると、ニシンも重要な商品だったようです。


漁業のなかでニシンが重要な意味を持つのは、その圧倒的な量にあります。11世紀、産卵期になるとバルト海沿岸にはニシンの大群が押し寄せました。ただ、ニシンは鮮度落ちが早く、また脂肪が多いために干物にも適しません。


《リューベックの東にあるリューゲン島の岸に、十一世紀になるとニシンが押し寄せていたのだ。加えて南西には岩塩の産地であるリューネブルクがあった》(『魚で始まる世界史』より)


リューベックはこの塩を利用して、大量のニシンを塩漬けにし、樽に詰めて販売したのです。ちなみにリューベックは文豪トーマス・マンの生誕地で、彼の自伝的小説『トニオ・クレエゲル』には「ニシンのサラダ」がさりげなく登場します。


加えて、河口付近の浅い海域でも航行可能な平底の輸送船を開発し、バルト海沿岸だけでなくロシア、スペイン、イングランドと販路を広げ、14〜15世紀にかけてハンザ同盟は最盛期を迎えました。


しかし、悲劇は突然訪れます。ニシンが消えたのです。


《絶頂は束の間だった。ハンザの富を支えていたニシンの群れが》《バルト海で産卵する機会が減少しはじめ、十六世紀には完全に北海へと移動してしまうのである》(『魚で始まる世界史』より)


北海に移動してきたニシンをこれ幸いと漁獲したのがお隣のオランダです。オランダは大型船を使い、流し網で大量のニシンを捕獲すると、船内で塩漬け加工まで行う生産革命を起こして大儲けしました。


こうしてハンザ同盟が衰退していくなか、オランダは徐々に海上交易の主導権を握り、やがて黄金時代を迎えるのです。


覇権の盛衰の陰にニシンあり。面白いですね。


とれとれ、ぴちぴち カニ料理〜♪
ズワイガニの魅力を伝えた2人の伝道師。

11月6日はズワイガニの解禁日です*。一昨年の鳥取港の初競りでは1匹500万円というとんでもない高値がついてニュースにもなりました。


今や高級品の代名詞のズワイガニですが、全国的に知られるようになったのは、それほど昔のことではありません。


「まるで海の宝石箱や〜」はグルメレポーター彦麿呂さんの有名なフレーズですが、彦麿呂さんよりも前に海の幸を宝石箱と表現した文豪がいました。食通として知られる作家、開高健さんです。


開高さんが宝石箱に喩えたのは「セイコ」と呼ばれるズワイガニのメスでした。


《雄のカニは足を食べるが、雌のほうは甲羅の中身を食べる。それはさながら海の宝石箱である》(開高健全集第15巻「越前ガニ」より)


1965年ごろ、新聞社の臨時海外特派員としてベトナム戦争に従軍した開高さんは最前線のジャングルで取材を続け、凄惨な体験をします。地獄のような戦場から戻ると、疲れきった心と体を癒すように福井県越前町の旅館「こばせ」を訪れ、堪能したのがズワイガニでした。


1日目に茹でガニ、2日目は焼きガニを完食すると、3日目にはご飯2合の上にセイコ七杯分の内子、外子、脚の身をほぐして載せ、カニの出汁と醤油をかけたカニ丼をペロリと平らげました。


このカニ丼をいたく気に入った開高さんは、その後もシーズンが訪れると食べに通い、エッセー、対談、講演などで機会あるたびにその美味さを紹介しました(のちにこのカニ丼は「開高丼」と名付けられました)。


東京でズワイガニを「越前ガニ」と呼ぶ人が多いのは、開高さんの影響かもしれません。


ズワイガニの魅力を全国に知らしめた立役者として、忘れてならないのはカニ料理専門店「かに道楽」の存在です。


『カニという道楽』(広尾克子/西日本出版社)に「かに道楽」の歴史が書かれていたので、ざっとご紹介しましょう。


創業者は兵庫県豊岡市出身の今津芳雄さん。


1915(大正四)年、鮮魚店の8人兄弟の末っ子として生まれた芳雄さんは、長兄の命で小学校を卒業すると行商に励み、地元で水揚げされたカニを必死で売り歩き、目利きとしての腕を磨きました。


長兄の文治郎さんは経営の才覚に恵まれた優れた実業家で、戦後まもなく地元に日和山観光を設立。主な事業は海洋遊園地「日和山遊園」(現・城崎マリンワールド)と旅館「金波楼(きんぱろう)」の経営でしたが、その後も水産加工業にゴルフ場経営と事業を拡大しています。


兄の経営する日和山観光に入社した芳雄さんは、当時よく行われていた社員旅行などの団体旅行をセールスする大阪案内所の所長として赴任します。1960年に案内所に併設して海鮮食堂「千石船」を開店しましたが、これが大苦戦。このままでは店を閉じるしかない……。


そんなピンチを救ったのが故郷のズワイガニでした。開店2年目を迎えようとしていた頃、魚介を塩水で煮て食べる地元の漁師料理「沖すき」をアレンジした新メニュー「かにすき」が大ブレイク。行列のできる店になったのです。


これをチャンスとみた芳雄さんは「カニで勝負してみたい。行商人冥利に尽きる」とメニューを絞り、巨大な動くカニの看板を掲げたカニ料理専門店「かに道楽」をオープンしました。


とれとれ ぴちぴち カニ料理〜♪


デューク・エイセスの歌うCMソング(作曲は浪速のモーツァルトことキダ・タローさん)が誕生したのは1968(昭和四三)年。


高度経済成長の波にも乗り「かに道楽」は大成功。1974年には東京・赤坂に進出。現在は直営店41店舗、売り上げ105億円と日本を代表するカニ料理専門店に成長したのです。


1995年に芳雄さんは逝去されました。享年80。ズワイガニを愛し、その魅力に賭けた人生でした。


芳雄さんはド派手な看板、コテコテのCMソングからくるイメージとは真逆の、とても謙虚な人だったようで、
《日和山観光(株)から分社、独立後も、「かに道楽」は兄からの預かり物と考えて一度も社長にならなかった。生活は質素で、酒は好んだが店の隅でひっそりと飲むことを好み、飲み歩くことはなかった。茹でたメスガニが大好物だったという》(『カニという道楽』より)
と記されています。


なるほど、開高さんも、芳雄さんもメスのほうが好きだったようですね。今年こそは新型コロナに邪魔をされずに、海の宝石箱を楽しみたいものです。


*主たる生産地である富山県より西の日本海沿岸の解禁日
参考文献:『カニという道楽』(広尾克子/西日本出版社)

石油元売り業界の再編で消える
ホタテマークのガソリンスタンド。

地球規模の気候変動問題の解決のため、化石燃料から再生可能エネルギーへとエネルギーシフトが世界的に求められるようになり、今後、需要の大幅な減少が予想されることから、石油元売り各社は生き残りを賭け「総合エネルギー企業」に脱皮しようと必死です。


日本石油、三菱石油、ゼネラル石油、モービル石油……。かつて20社近くが割拠していた石油元売り会社は再編に再編を重ね、現在はENEOS、出光、コスモの3社でほぼ寡占という状態になりました。メガバンクと同じですね。


2019年に出光興産と昭和シェル石油が経営統合されたため、黄色いホタテの貝殻マークの看板を掲げたシェルのサービスステーションが日本から姿を消しつつあります。


今月のテーマはホタテ。シェルのシンボルマークのお話です。


今から150年前。廃藩置県などでまだ日本が大きく揺れている明治4年(1871)、1人の若者が横浜港に降り立ちました。ロンドンの雑貨商の息子、マーカス・サミュエル18歳。のちのシェルの創業者です。


なけなしの資金を元手に、マーカスはエキゾチックな民具や雑貨を買いつけてはロンドンに送りました。4年前に開かれたパリ万博はヨーロッパに熱狂的なジャポニスム・ブームをもたらしていましたから、その勢いにのったのかもしれません。


なかでもよく売れたのが、日本で見つけた珍しい貝、貝殻で作ったボタンや貝殻細工箱などの装飾品でした。


順調に商売を広げたマーカスは明治9年(1876)、横浜にサミュエル商会を設立。アジアの物品を扱う貿易で巨財を築くと、当時最先端のエネルギー、石油の輸送に乗り出します。


開通してまもないスエズ運河は、危険すぎると当時主流だった帆走タンカーの通航を許可していませんでしたが、マーカスは粘り強く交渉し、通航可能なタンカー船の仕様を聞き出し、最先端の蒸気船のタンカーを建造します。


幸運をもたらしたラッキーアイテムの貝にあやかったのでしょうか、マーカスは蒸気船タンカー3隻に「Murex」(ホネガイ)、「Conch」(ホラガイ)、「Clam」(ハマグリ)と名付けました。


このタンカー船団は1892年、ロシアで採掘した石油をスエズ運河経由で極東へ運ぶことに成功。アジアの石油市場を独占していたロックフェラー率いる巨大企業、スタンダード・オイルの牙城を崩したのです。


さらにマーカスはボルネオの油田開発にも成功すると、1897年に会社名に貝を冠した「シェル運輸交易会社」を設立します。1907年にはオランダの「ロイヤル・ダッチ社」と事業提携。現在の「ロイヤル・ダッチ・シェル」の誕生です。


シェルといえばホタテのシンボルマークが有名ですが、1900年につくられた初代のマークはムール貝がモチーフでした。ホタテに変わったのは1904年からです。


貝殻のウネの数や太さからするとモチーフになったのはヨーロッパホタテガイ。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』にも描かれているように、ヨーロッパホタテガイは昔から多産の象徴ですから、おそらく会社が繁栄しますようにとの願いを込めて採用したのでしょう。


ヨーロッパ最大のエネルギーグループの原点が、夢を抱き、遠い、しかも激動期の日本にやってきた青年と貝との出会いにあったというのは面白いですね。

17世紀の静物画は現代のインスタ映え?
なぜロブスターは好んで描かれたのか。

あけましておめでとうございます。


さて、みなさんの食べたおせち料理にエビは入っていましたか? 長い髭を生やして腰の曲がったエビは長寿のシンボル。縁起物の定番です。


今日はエビの仲間、ロブスターのお話です。


2020〜2021年に東京と大阪で開催された『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』は第7章からなる構成で、第2章が「オランダ絵画の黄金時代」でした。


17世紀のオランダを代表するレンブラント(1606〜1669)やフェルメール(1632〜1675)の作品とともにウィレム・クラース・ヘダ(1593?〜1682?)の《ロブスターのある静物》も来日しました。


卓上に並べた花や果物、食器といった動かないものを描く「静物画」が絵画のジャンルとして確立したのはまさにこの時期のオランダです。


当時のオランダは1581年にスペインからの独立を宣言すると、1602年にはオランダ東インド会社を設立してアジアに進出。スペイン、ポルトガルから香辛料貿易を奪い取り、ドヤ顔でブイブイいわせている絶頂期です。


アムステルダムの港には世界各地から珍しい品が続々と運ばれ、膨大な富がオランダに集中しました。史上初のバブル経済といわれるチューリップ・バブルが起きたのも17世紀のオランダです(1637年頃)


神聖ローマ帝国の一部に過ぎなかった小国が、17世紀に世界最強国のひとつにまでのしあがったのはなぜでしょう。


地理的、自然的さまざまな要因があげられますが、やはりなんといっても繁栄の原動力は人々の考え方の変化です。


16〜17世紀の欧州といえば宗教改革の嵐の真っ只中。オランダの独立戦争を担ったのはプロテスタント。なかでもカルヴァン派と呼ばれる人々です。


カトリック教会が「金儲けは卑しい行為、蓄財は恥ずべきもの」と教えたのに対し、カルヴァン派は「労働は神から与えられた天命。真面目に働いて得たお金に後ろめたさを覚える必要はない。勤労は美徳である」と教えました。


この考えは商工業者、金融業者といった新興の市民層に強く支持され、多くの信者を獲得します。


オランダはいわば商人の国。身分制度のしばりがきつい欧州各国に比べると才覚次第で成功できる実力主義の国でしたから、夢を抱いた人々がオランダを目指しました。


自由と活気に満ちた町の魅力に引きつけられたのは商人だけではありません。「我想うゆえに我あり」のデカルト(仏)、「自由主義の父」ジョン・ロック(英)といった知識人も母国を離れオランダに住みつくようになります。


カルヴァン派の特徴といえば勤労とともに禁欲です。勤労と禁欲こそが神の栄光をもたらす。人々は労働に励み、儲けた金は浪費せずに商売の拡大や新規事業の立ち上げに再投資しました。こうして、富が富を生み出し、より多くの利潤を上げることを目指す新しい価値観が生まれたのです。


これぞ近代資本主義の思想の原点です。


オランダで静物画が盛んになった理由は、この市民階級の価値観に起因するといわれています。


それまで絵画はカトリック教会や貴族といった支配階級がパトロンとなって画家に作品を依頼するスタイルが一般的で、描かれるテーマも神話や聖書からの題材が中心でした。


しかし、オランダでは画家のクライアントは新興の市民階級です。しかも聖書そのものを信仰するプロテスタントですから、宗教的な絵は注文しません。


広い世界を満喫し、豊かさを謳歌しているプロテスタントは、古い因習に縛られずに自由に精一杯、今を生きている証を残そうとしました。


手に入れた珍しい花、異国の果物、見事な食器、かっこいい武器や高性能の時計など……俺のコレクションを絵にして眺めたい。来客にリア充ぶりをプチ自慢したいという気持ちもあったのではないでしょうか。


つまり、現代の「インスタ映え」みたいなもの。そう思うと退屈に思えた静物画も面白く鑑賞できます。


このころの静物画のモチーフは花が主役ですが、ロブスターもよく登場します。当時も高価だったロブスターは豊かさの象徴でした。


調べてみると、やってきたヘダの絵のほかにもクララ・ペーテルス、ピーテル・クラース、ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム、ウィレム・カルフ、アブラハム・ファン・ベイエレン、コルネリス・ド・ヘーム……と多くのオランダ人画家がロブスターを描いています。


静物画は画家の技量を露わにします。画家たちはこぞってみずみずしい花やガラスの光沢、柔らかい布など、微妙な質感を精緻に描写する高度な写実のテクニックを競いました。


形的にも色的にも質的にも独特なロブスターを描くのは、画家にとっても腕の見せどころだったのかもしれません。


*参考文献
『静物画』(エリカ・ラングミュア/八坂書房)
『ロブスターの歴史』(エリザベス・タウンセンド/原書房)
『マンガみたいにすらすら読める経済史入門』(蔭山克秀/だいわ文庫)

オイスター全滅のピンチを救った
環境適応力に優れた日本の牡蠣。

世界中の人々に愛されている牡蠣ですが、なかでもフランス人の牡蠣愛は突出しています。


フランスの外食産業が花開いたのは、王侯貴族に召抱えられていた料理人たちがフランス革命で職を失い、独立して市中に店を構えた19世紀初頭です。


その頃のパリの街で、文豪バルザック(1799〜1850)は144個の牡蠣をペロリとたいらげ、友人のアレクサンドル・デュマ(1802〜1870)は、牡蠣にはレモンをかけずに食べろと書き残し、印象派の父マネ(1832〜1883)はみずみずしい牡蠣の静物画を描きました。


彼らが食べていた牡蠣は、おそらくヨーロッパヒラガキ(ブロン。殻が円形)でしょう。


フランスで牡蠣養殖が始まったのは1860年代ですが、沿岸の埋立てや排水による環境悪化などが原因で、1950年代の10万トンをピークに牡蠣の生産量は減少を続けました。


追い討ちをかけるように1960年代末(スクリーンでカトリーヌ・ドヌーヴやアラン・ドロンが世界を魅了している頃)、ウイルス性の病気が大発生し、フランスの牡蠣は全滅寸前になったのです。


この危機を救ったのが日本のマガキでした。研究の結果、マガキにウイルス耐性があることが分かったのです。


日本産という外来種を導入するにはリスクも伴いましたが、No oyster no life。ノンノン。Pas d’huître pas de vie。牡蠣のない人生なんて考えられないのがフランス人。1970年~73年にかけて、主に宮城県からマガキの稚貝を約1万トン移植しました。


こうしてフランスの牡蠣養殖は回復し、90年代には生産量は15万トンに達しました。現在ではフランス産の90%以上が日本由来種といわれています。


それから約40年後の2011年3月。未曾有の大地震と津波が三陸沿岸を襲い、牡蠣養殖も甚大な被害を受けました。家も漁具も流され途方に暮れている漁業者に、昔、助けていただいた恩返し、とフランスの牡蠣生産者をはじめルイ・ヴィトンなど様々な団体から復興支援金や養殖再開のための物資が贈られたニュースはみなさんの記憶にもあると思います。


実はこれまで日本の牡蠣が救ったのは、フランスだけではありません。


かつてアメリカでは主にバージニアカキ(アメリカガキ。大西洋沿岸に生息)、オリンピアガキ(太平洋沿岸に生息。小粒サイズ)を食べていました。ところが19世紀末、人口増に伴う乱獲、環境悪化、病気などが原因で、収穫量が激減したのです。


この窮地を救ったのも日本のマガキでした。なかでも宮城県から送られたマガキの稚貝は環境適応力が高く、南はカリフォルニアから北はカナダという異なる生息環境でも元気に繁殖しました。このためアメリカでは「Miyagi Oyster」がマガキの代名詞になっているほどです。


日本からの種牡蠣(牡蠣の稚貝)の輸入は継続して行われ、第二次世界大戦中は途絶えたものの、戦争が終わるとGHQは対米輸出の再開を命じました。


しかし、戦争による打撃で宮城は人手も資材も足りず、広島も原爆で壊滅的な状態でしたから、十分な種牡蠣の数を揃えることができません。


このとき注目されたのが熊本、八代海のシカメガキです。小ぶりなこの牡蠣は、大きなサイズを好む日本ではあまり人気がありませんでした。


一方、アメリカでは殻からチュルッとひと口で食べられる小粒なほうが好まれます。シカメガキは大好評で、これをアメリカの生産者が改良したのが「Kumamoto Oyster」です。


やがてアメリカの牡蠣が復活するとともに輸出は減り、生産者も牡蠣から海苔養殖に移行しましたから、私たちにとって有明海・八代海といえば海苔。牡蠣というイメージは希薄かもしれません。


しかし、身近なところに有明海の牡蠣はあります。


1919年の春、有明海沿いの堤防で漁師が牡蠣の煮汁を捨てているのを見た青年は、この煮汁を煮つめたグリコーゲンたっぷりの牡蠣エキスを使って健康食品をつくるアイデアを思いつきました。青年の名は江崎利一。生まれたのが「ひとつぶ300メートル」のキャッチコピーでお馴染み、グリコのキャラメルです。


さて、今では当たり前のように生牡蠣を食べていますが、日本では焼きガキ、蒸しガキ、カキフライ、土手鍋、かき飯……など、加熱調理して食べるのが定番でした。


東京の五反田にオイスターバーが登場したのが1999年。空前のワインブームも重なって、このころから一気に殻付きの生牡蠣を食べる文化が浸透したと思われます。ニュージーランドのカイパラ、タスマニアのミルキーウェイ……。オイスターバーに並べられた世界の牡蠣の名前を見て「米国産のクマモト?」と不思議に思った人も多かったでしょう。


オイスターバーでKumamoto Oysterを目にするようになったとき、本家の八代海ではシカメガキは生産されておらず、それどころか絶滅したとさえ考えられていました。


2005年、熊本で「クマモト・オイスター復活プロジェクト」が始まりました。県水産研究センターが県内を調査し、絶滅したと思われていたシカメガキを再発見。研究を重ねて稚貝の生産に成功すると、2010年に県内生産者による養殖試験が始まり、翌年、半世紀ぶりに出荷することに成功しました。


フランスやアメリカの牡蠣の危機を救った日本のマガキですが、逆に病気に強く、環境適応力の高いマガキだけしか生き残れない海……と考えると「日本のマガキ最強」と喜んでばかりもいられません。


近年では東京湾、大阪湾でも生食用殻つき牡蠣の生産に取り組んでいます。ご当地牡蠣を味わいながら、育った海の環境、ワインの世界でよく語られる「テロワール」に思いを馳せてみてはいかがでしょう。


*参考文献
『フランスを救った日本の牡蠣』(山本紀久雄/小学館スクウェア)
『牡蠣とトランク』(畠山重篤/ワック)
『牡蠣の歴史』(キャロライン・ティリー/原書房)

《海の幸》で描かれたのは何ザメ?
青木繁と笛吹童子とクレージー。

横長のキャンバスに描かれた、長い銛と捕獲した大きな魚を担ぎ、波打ち際をギリシア時代の歩兵のように行進する赤銅色をした全裸の漁民たち。


明治期を代表する画家、青木繁(1882〜1911)の《海の幸》は教科書などでもお馴染みでしょう。


昨年秋、アーティゾン美術館で開かれた「M式『海の幸』森村泰昌 ワタシガタリの神話」展ではじめて原画を観たのですが、下書きの線はそのまま、赤い輪郭線は強くぶっきらぼう、野性的な筆のタッチは息をのむ迫力でした。


この絵が描かれたのは1904年。マティスらフォーヴィズム(野獣派)がパリに登場する1年前ですから、誰の真似をしたわけでもない。まさに天才です。


漁民が運ぶ3匹の巨大な魚は明らかにサメです。なぜ青木はサメを描いたのでしょう? そして、このサメは何ザメなのでしょう。


青木は1882年(明治15)、福岡県久留米市に旧久留米藩士の長男として生まれました。「美術界のアレキサンダー大王になる」と親の反対を押し切り上京。画塾で2年間学んだのち、東京美術学校西洋画科(東京芸術大学美術学部の前身)に入学し、その画才を華々しく開花させます。


芸術家として生きるという強い自負があったのでしょう。1904年(明治37)7月に美術学校を卒業しますが、青木は就職せずに友人3人と写生旅行をします。向かったのは房総半島南端の布良(めら)海岸。


このときまだ内房線は開通していませんから、霊岸島(現中央区新川)から蒸気船で浦賀を経て館山へ。そこから山道を歩いて3里。


青木の最高傑作《海の幸》はここで制作されました。


いくつかの評伝では、布良に同行した久留米の小学校時代のクラスメート、のちに洋画家として名をあげた坂本繁二郎(1882〜1969)が晩年に語った「あの絵は私が大漁の光景を目にしたことを宿に戻って青木に伝え、その話から彼のなかに画の構想が浮かび、描きあげたものだ」という内容の談話を引用し、《海の幸》は青木の空想の産物だとしています。


これに異を唱えているのが作家・松本清張です。


『私論 青木繁と坂本繁二郎』によると《坂本八十四歳ごろの談話である》《当の青木がとっくに居なくなっているのであるから、死人に口なしで坂本は自分に都合のいいことが云えるわけである。この談話は、坂本が「海の幸」の声価にケチをつけたととられても仕方なかろう》《青木よりずっと長生きした坂本の青木に対する一種の嫉妬・敵愾心がのぞいている。》


推理の当否はさておき、清張の描く青木と坂本の関係は映画『アマデウス』の天才・モーツァルトとサリエリのようで、とてもスリリングです。


清張の評伝では触れていませんが、布良は日本の伝統漁法「マグロはえ縄漁業」発祥の地です。


江戸時代中期に布良で誕生したマグロはえ縄漁業は、明治中期には船も大型化し、漁場も伊豆稲取沖から銚子沖まで広がりました。当時「布良のマグロはえ縄漁業は日本一」といわれ、小さな漁村は栄え、銀行や映画館まであったといいます。


賑わいをみせた反面、海難事故が頻発して多くの漁夫が死亡したことから、マグロはえ縄漁船は俗称「布良の後家船(ごけぶね)」とも呼ばれていました。


はえ縄漁ではマグロだけでなくサメも混じって漁獲されます。実際、館山にはフカヒレ加工の会社が数社あったといいます。


青木は学生時代から熱心に日本の神話を題材に作品を描いています。神話にはサメがよく登場しますから、できれば実際に大きなサメを見てみたい。布良に行けば可能性があるという情報を青木は得ていたのかもしれません。


魚偏に交わると書いて「鮫」。サメの多くはオスとメスが交尾し、メスがお腹の中で子どもを育てる卵胎生です。ヌメッとした肌を長く鋭い銛が突き、巨大なサメは激しく体をのたうちさせながら絶命する。漂う血の生臭い匂い。ダイナミックに生と死が交錯する様子はどこかエロティックですらあります。


もしも《海の幸》で描かれている巨大な魚がマグロやカジキだとしたら、どうでしょう。観る人を圧倒する高い評価は得られなかったのではないでしょうか。


話が長くなってしまいました。ここに描かれているサメは何ザメなのでしょう。


現在、気仙沼を中心にはえ縄漁で漁獲されている主なサメはネズミザメ(モウカザメ)とヨリシキザメです。とすると、描かれているのもこの2種なのでしょうか。


専門家に問い合わせたところ「ネズミザメの生息域は水温の低い北の海。南房総ならアオザメの可能性が高い。形状と生息域から想像するとヨシキリザメとアオザメ、またはこの2種をもとに画家が創作したのではないか」とのことでした。ちなみにどちらも美味しいサメです。


さて、《海の幸》をよく見ると、一人だけ白い顔をして不安げにこちらを見ている若者がいます。モデルになったのは布良にも同行した青木の恋人で画学生の福田たね(1885〜1968)です。


たねはこの旅で青木の子を宿します。生まれた男の子は神話「海幸山幸」から幸彦と名付けられましたが、2人は入籍することなく、出生届はたねの弟として提出されました。


困窮にあった青木はたねの実家に援助を受けながら、絵画の制作に取り組みましたが、画壇からは思うような評価を得ることができず苛立ちます。


1907年、父の危篤の知らせを聞いた青木は単身、久留米に帰郷。そのまま妻子のもとへ戻ることなく九州各地を放浪し、福岡で肺結核のため病死します。享年28。一方、たねは1910年に実家に幸彦を残し再婚。


父母に捨てられた幸彦(1905〜1976)は祖父に育てられ、やがて音楽の道に進みます。福田蘭堂という名前で尺八奏者や映画音楽の作曲家として活動し、新橋で運輸業を営む資産家の娘と結婚。1927年に男児をもうけました。


しかし、幸彦は麻雀賭博や結婚詐欺などでたびたび警察の厄介になると、1934年には懲役10カ月の実刑判決を受け服役。出所すると妻子を捨て、人気映画女優と再婚します。


ハチャメチャな言動は当時、世間を騒がせたようですが、いかんせん戦前の話。ご存じの方は少ないでしょう。ただ、福田蘭堂こと幸彦が戦後に作曲したラジオ番組「笛吹童子」の主題歌〈ヒャラ〜リ ヒャラリコ ヒャリ〜コ ヒャラレロ♪〉のメロディーを耳にしたことはあるのではないでしょうか。


幸彦の先妻との子、青木繁の孫にあたる英市(1927〜1994)は、母の実家で父親は死んだと聞かされて育ちました。しかし不思議なもので父と同じ音楽の道を歩みます。1949年に東洋音楽学校声楽科を卒業したもののクラシックでは食べていくのは難しく、進駐軍クラブで米兵相手にジャズピアノを弾く日々。


1956年、英市が誘われて加入したのが、結成して間もない「ハナ肇とクレージーキャッツ」。クレージーキャッツはテレビ創成期の人気番組「シャボン玉ホリデー」などに出演すると、たちまち時代の寵児になり、音楽でもギャグでも一世を風靡し、歴史にその名を刻みます。


英市は1970年に病気でバンドを脱退するまで石橋エータローとしてピアノを担当し、その後は料理研究家として活躍しました。


福田蘭堂は釣りをこよなく愛し、「三漁洞」という魚をメインにした小料理屋を1967年、渋谷に開店します。蘭堂とエータローの間には一時期、激しい軋轢がありましたが、後年和解し、エータローは父の死後「三漁洞」を継ぎました。


三代揃って波乱万丈の人生。芸術家であり、海を愛した《海の幸》三代、神話のような実話です。


*参考文献
『私論 青木繁と坂本繁二郎』(松本清張/新潮社)
『画家の後裔』(絵・青木繁、文・福田蘭堂、石橋エータロー/講談社文庫)
『青木繁』(阿部信雄/新潮日本美術文庫)

生シラスのシーズン到来。
マイワシの稚魚と『海街diary』

シラス漁が解禁となり、春シラスの美味しい季節となりました。


「シラス」はイワシ類、ウナギ、アユなどの半透明な稚魚を示す総称ですが、一般的にシラスと呼ばれているものはイワシ類(マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシ)の稚魚のことで、そのほとんどがカタクチイワシです。


ただ、ご存じのように近年はマイワシが豊漁です。イワシ類の種類別の漁獲量の割合をみると、約20年前の2003年はマイワシ8%、カタクチイワシ78%だったのが、2020年はマイワシ74%、カタクチイワシ15%。


こうなるとシラスもマイワシの稚魚の割合が増えるのでしょうか。専門家に問い合わせてみたところ……


「カタクチイワシ、マイワシともに沿岸部で産卵しますが、カタクチイワシはより浅い岸近くで産卵します。シラス漁は主に岸沿いで操業するので、カタクチイワシの稚魚がメインであることには変わりません」


「また、カタクチイワシがほぼ通年産卵するのに対し、マイワシの産卵期は春先です。ですから、シラスのなかからマイワシの稚魚を見つけるのなら春がチャンスだともいえます」


「小さくて判別しにくいのですが、比べてみると、上顎が下顎よりも前に出て頭が丸いのがカタクチイワシで、下顎が上顎よりも前に出ていて頭が角ばっているのがマイワシです」


「シラス漁師のなかにはマイワシよりもカタクチイワシのシラスのほうが美味いという人もいます。シラス干しを作るときの選別過程でマイワシがはじかれることもあるので、生シラスを観察するほうがマイワシの稚魚が見つかる可能性は高いかもしれません」


シラスを食べる楽しみが増えました。


さて、今ではみんな大好きな生シラスですが、シラスは鮮度落ちが早いので、昔からほとんどが加工して販売されていました。


「生シラス」を薄い塩水でさっと茹でたのが「釜揚げシラス」。これを天日や乾燥機で軽めに乾燥させたものが「シラス干し」(ソフトちりめん)。より乾燥させたものが「かちり」(上乾、ちりめんじゃこ)です。


ちなみに関東ではやわらかく細めのものが好まれるのに対し、関西では太くて乾燥させたものが好まれる傾向にあるといわれます。


「生シラス」ブームに火がついたのは1990年ごろからでしょうか。神奈川県鎌倉市腰越に生シラスをドーンとご飯の上に乗せた「しらす丼」を食べさせる食堂が登場し、メディアで頻繁に取り上げられたことがきっかけのようです。


昔から相模湾沿いの鎌倉市材木座から藤沢市片瀬海岸にかけてはシラス漁が盛んで、シラスは「たたみイワシ」(角干し)に加工され食べられていました。


「たたみイワシ」といっても関西では馴染みがないかもしれません。


これは、洗ったシラスを底に目の細かい網を貼った長方形の升ですくい、均等に適度な厚みをつけて成形し、専用のすだれに貼り付けて板状に乾燥させた……いわばシラスでできた海苔のようなもので、よく乾燥して日持ちしたことから重宝され、湘南のシラスといえば「たたみイワシ」でした。


日本が高度成長期を迎えた1964年の東京五輪ごろ、交通網が発達して流通のスピードが上がり、一般家庭にも冷蔵庫が普及して保存が効くようになるとシラスの需要が増加します。湘南でも手間のかかる「たたみイワシ」から、より簡単で、家庭で料理の応用もきく「シラス干し」の生産へと移行していきます。


それから四半世紀後、今度は「朝獲れ生シラス」のブームを迎えるわけです。


生シラスが湘南地区を中心にヒットした背景には、産地が江ノ島、鎌倉という観光地で集客力があったことに加え、その漁法も大きく影響していると思われます。


シラスは主に船で網を曳く「船曳き網漁」で漁獲されます。「船曳き網漁」には1隻で網を曳く「一艘曳き」と2隻で曳く「二艘曳き」があります。


一艘曳きと二艘曳きには地理的境界線があり、静岡県静岡市の旧静岡市以西は二艘曳き、旧清水市以東は一艘曳きが主流で、湘南をはじめ関東のシラス漁は1隻で操業しています。


一艘曳きは二艘曳きと比べると漁獲量は少ないのですが、網を曳く時間が短く、一度に大量に獲れないことから魚を傷つけることも少なく、より新鮮で生食向きだったのです。


鎌倉を舞台にした映画『海街diary』(是枝裕和監督/2015年)にも、腰越漁港のシラスの陸揚げ、釜揚げのシーンがありました。シラス干しづくりのお手伝いをした四女(広瀬すず)が生シラスとシラス干しをもらって帰り、四姉妹揃って家でちゃぶ台を囲んで生シラス丼を食べるシーン、よかったですね。


「生シラスなんか、ほかじゃ食べられないからね」(次女:長澤まさみ)


ただ、生シラス丼もいいのですが、映画の中でリリー・フランキーが店主を演じた喫茶店(モデルは鎌倉キネマ堂)の厚切りトーストにシラス干しと刻み海苔をのせた「しらすトースト」のほうが個人的には好きですけどね。

そのホタルイカ、
富山県産、兵庫県産、どっち?

ホタルイカの仲間は世界の海に40種ほどいますが、食用になっているのはホタルイカだけといいます。


分類学でホタルイカは「ホタルイカモドキ科ホタルイカ属ホタルイカ」です。なぜ「モドキ」と呼ばれるものが「ホタルイカ」の上位にあるのか、不思議ですよね。


1905年に動物学者の渡瀬庄三郎博士(1862〜1929)が富山湾を訪れ、地元で「コイカ」や「マツイカ」と呼ばれていた蛍光ブルーに光る小型のイカを「ホタルイカ」と命名し、これが標準和名となりました。


その後、日本に進化論を紹介したことでも有名な動物学者・石川千代松博士(1860〜1935)が1914年に、ホタルイカによく似たイカを発見し、「ホタルイカモドキ」と命名しました。


ところが、すでに海外では光る小型イカのグループをEnoploteuthidae科と命名していました。このEnoploteuthidaeの特徴がホタルイカよりもホタルイカモドキに近かったことから、和名は「ホタルイカモドキ科」となり、ホタルイカモドキ科のなかにホタルイカ属が含まれるという珍妙なことになったのです。


ただ、ホタルイカの系統は現在でも検討段階で、ホタルイカはホタルイカ属ではなくニセホタルイカ属に含まれるのではないか。つまり「ホタルイカモドキ科ニセホタルイカ属ホタルイカ」が妥当であるという説も有力なのだそうです。


ニセもおったんかい! とつっこみたくなりますが、ホタルイカは有名でも、まだまだ謎が多い不思議な生き物なのです。


ホタルイカといえば春の富山湾の風物詩ですが、生息域は広く、日本海と太平洋は北海道以南〜熊野灘に分布していて、水揚量は兵庫県の浜坂漁港が全国一です。


同じホタルイカを漁獲するのでも富山と兵庫では漁法が異なります。富山ではホタルイカが餌を求めて夜間に海面近くに浮上したところを定置網で漁獲するのに対し、兵庫など山陰沖では、深海にいるホタルイカを底曳き網で漁獲します。


富山のホタルイカ漁が解禁となるのは3月。漁獲されるほとんどは産卵のために富山湾にやってきたメスで、胴体ははち切れんばかりに丸々と太っています。オスが数千匹に1匹しかいないのは、生殖を終えると富山湾奥に入る前に死んでしまうからなのだとか。


富山のホタルイカ漁の歴史は古く、1585年頃には漁獲していたという記録が残っているのに対し、兵庫でホタルイカの底曳き網漁が始まったのは1985年頃と比較的最近のことです。


以前から兵庫など山陰沖の底曳き網に小さなイカが入ることは知られてはいましたが、底曳き網漁はズワイガニやカレイ類が対象でしたから、この小さなイカは見向きもされませんでした。


ところが稼ぎ頭のズワイガニの漁獲量は年々右肩下がりとなり、底曳き網漁師は苦境に立たされました。この小さなイカがホタルイカであると確認されたのはそんなときでした。


富山湾のホタルイカは年ごとで漁獲量が大きく変動します。80年代半ば、ホタルイカが不漁で困っていた富山の加工業者や仲買人が、兵庫でホタルイカが獲れている情報を聞き、これを仕入れに駆けつけたのです。


見向きもされなかったイカの市場的価値が高まったことで、兵庫のホタルイカ狙いの底曳き網漁が本格的に始まりました。


最初は底曳き漁であるため、ヒトデや泥が混じり、質が悪いといわれましたが、網の曳き方や構造に工夫が重ねられるとともに、兵庫県内でも加工品の開発が進み、質も向上。販路も拡大していきました。


ただ、底曳き網漁は深海にいるホタルイカを狙うため、まだ太りきっていないメスやオスも混じって漁獲されますから、富山県産に比べると全体的に小振りです。


4月上旬、鮮魚店で両県のボイルしたホタルイカのパックが並べて売られていたので比べてみると、やはり富山県産のほうが兵庫県産よりも大振りです。


値段は富山県産が23匹入り399円(1匹約17円)、兵庫県産が33匹入りで224円(1匹約6.8円)。1匹あたりにすると倍以上の差があるのですね。


せっかくですからボイルされたホタルイカを観察してみましょう。かわいい姿に似合わず、2本の長い触腕の先端は鉤状になっていて獰猛な雰囲気を漂わせています。腹側(漏斗のあるほう)前面にある2本の腕(第4腕)の先端は黒ずんでいます。これが腕発光器です。


この腕発光器は瞬間的に強い光を放ちますが、長くは続きません。捕食者に襲われそうになったとき、発光器を一瞬光らせて自分の位置を印象付け、捕食者が光った場所を攻撃する隙に別な方向に逃げているのではないかと考えられています。


さて、観察し終わったところで、料理をはじめるとしましょう。


ボイルしたホタルイカは酢味噌や生姜醤油で食べるのが定番ですが、おすすめは「ホタルイカと春野菜のパスタ」。ネットでは見かけないとびっきりのレシピをご紹介しましょう。


まず、たっぷりめの数のボイルしたホタルイカから目玉を取り除き、ミンチ状に叩きます。これをニンニク、唐辛子とともにオリーブオイルで炒め、パスタの茹で汁を少々加えて乳化させ、塩・コショウで味を整えソースを作ります(塩の代わりに刻み塩昆布を使うのもよし)


あとは菜の花などの春野菜をパスタと一緒に茹でて、しっかり湯切りをしてからソースに絡めて出来上がりです。


ホタルイカのワタの濃厚な旨みが口に広がる、春を感じる逸品。ぜひ、お試しあれ。


*参考文献
『ホタルイカの素顔』(奥谷喬司 編著/東海大学出版会)
『イカはしゃべるし、空も飛ぶ』(奥谷喬司/講談社)

東日本大震災から11年、
大きく変わったホヤの生産地図。

1995年。今から27年前、海を渡ってメジャーリーグに挑戦した野茂英雄は、6月2日のメッツ戦で初勝利を挙げると、前半戦を6勝1敗、防御率1.99の好成績で折り返し、オールスターゲームではナショナルリーグの先発を務め、2回を無失点で抑えました。


大きく振りかぶり、いったん打者に背を向けるまで上体を大きく捻る独特なフォームから放たれるフォークボールで奪三振の山を築くと、シーズン通算で13勝6敗、防御率2.54、奪三振はリーグ最多の236。獅子奮迅の大活躍でドジャーズの7年ぶりの地区優勝に貢献。新人王も受賞しました。


シーズンが終わり、帰国した野茂が当時の人気バラエティ『とんねるずのみなさんのおかげです。』の「食わず嫌い王決定戦」にゲスト出演したときのことです。


このコーナーはトークしながらゲストの食べる反応を見て、苦手な食べ物を当てるゲームで、野茂の正解は「ホヤの酢の物」でした。


ところが、番組で出されたホヤを野茂は、「あれ? これ美味しい」とパクパク食べだしたのです。きっと、それまで美味しいホヤに巡り合っていなかったのでしょう。でも、そんな人はきっと少なくないはずです。


かつてホヤは東北地方の特産品で、年間1万t前後が宮城,岩手,青森の3県で養殖されていました(全体の約8割は宮城県産)。酒の肴として有名なホヤですが、いかんせんその位置付けはあくまで珍味。国内の消費量は限られていて、2000年代半ば、生産されたホヤの約7割が韓国に輸出されていました。


韓国もホヤの養殖は盛んだったのですが、1995年に「ふにゃふにゃ病」(被嚢軟化症)というホヤの病気が蔓延すると、4万tあった生産量が10分の1の4000tまで激減してしまったので、宮城県から大量にホヤを輸入していたのです。


2011年の東日本大震災は三陸沿岸のホヤ養殖業者に壊滅的な被害を与えました。


ホヤは種付けから出荷サイズまで育つのに約3年かかります。宮城県でホヤを収獲できたのは2013年、わずか94tでした。この年に566tを生産してトップに立ったのは、それまでほとんどホヤを養殖していなかった北海道でした。


宮城県は14年4069t、15年4873tと生産量を増やしましたが、北海道も989t、2721tと生産量を伸ばしていきます。


というのも、韓国は原発事故を理由に宮城、岩手を含む8県産の水産物の輸入を禁止しましたが、北海道は対象地域ではないため、ホヤを輸出することができたのです。


16年には宮城県のホヤ生産は1万3400tと回復したものの、販路は閉ざされたままでしたから過剰供給となり、16年には7600t、17年は6900tもの行き場を失ったホヤが焼却処分されました。


この辺の事情はWeb版解説ノート『ホヤはお好き?』第2部
をお読みいただくとして、その後の状況をお伝えしておきましょう。


18年になると計画的生産が進み宮城県が5479t、北海道4492t。この年を最後に焼却処分は終了します。19年は宮城県が5200t、北海道5800t。20年は新型コロナ感染拡大に伴う外食需要の減少で、水揚げを調整したことも影響して宮城県4369t、北海道3703tとなっています。


宮城県のホヤの大口客だった韓国向け輸出は、今や北海道にとって代られました。たとえ韓国の輸入禁止措置が解除されても販路が復活するのは難しそうです。加えて、韓国でもホヤの生産は回復しつつありますし、しかも、若者のホヤ離れで韓国のホヤ消費量は減少傾向にあるといわれています。


こうなると国内での消費を増やすしかありません。まず必要なのは、多くの日本人がまだ知らないその美味しさを知ってもらうことです。


最近では販路開拓の努力の結果でしょうか、首都圏の鮮魚コーナーでも以前よりもホヤを見かけるようになりました。


ただ、いきなり殻付きというのは初心者にはハードルが高いかもしれません。


ホヤは鮮度が落ちるにつれてクセが強くなります。産直ならまず問題ないのですが、殻付きであれば鮮度が保持できるというわけではありません。


初心者はいきなり殻付きに挑戦するよりも、旬である今の時期に収獲したホヤ(梅雨ぼや、七夕ぼや)をすぐに剥いて冷凍した「むきホヤ」のほうがクセは少ないので、おススメといえるでしょう。


また、これまでホヤといえば刺身、酢の物といった食べ方が主流でしたが、唐揚げや、鍋など、ホヤを加熱調理する新しい食べ方の提案も進んでいますので、詳しくはWeb版解説ノート『ホヤはお好き?』第3部

をお読みください。


野茂が海を渡ってから27年。メジャーリーグでは大谷翔平や菊池雄星(ともに花巻東高校)が、日本プロ野球では佐々木朗希(大船渡高校)が史上最年少で完全試合するなど、ホヤの産地である三陸地方勢が大活躍する時代となりました。


この勢いにもあやかって、一人でも多くホヤのファンが増えて欲しいものです。


*参考資料
『漁業・養殖業生産統計』(農林水産省)
『マボヤの被嚢軟化症 診断・防疫マニュアル』(養殖衛生対策推進協議会)
『河北新報』2020年6月24日、2021年5月30日

シンコを食べる見栄と意地は
江戸っ子の食文化の名残?

江戸前鮨を代表する鮨ダネは何かと聞かれて、「コハダ」と答える人は多いのではないでしょうか。


氷水に浸けてからウロコを引き、手早く頭、ひれ、内臓、骨を取り除き、開いて皮目を下にザルに並べ塩をして、塩がまわったら洗い流して水を切る。それを酢洗いし、さらに冷やした酢に本漬け。塩の量や酢に漬ける時間は魚の大きさや状態によって異なりますから、職人の腕前が試されます。


しかも、メタリックに輝く姿は鮨ダネのなかでもとびきりの美しさ。コハダの語源も、体表が子どもの肌のようにみずみずしい=「子肌」からともいわれています(諸説あり)


コハダといえば、「幽霊が怖くてコハダが食えるけぇ!」という江戸っ子の夏場の決まり文句がありますが、これは怪談『小幡小平次』に由来するものです。


『小幡小平次』は江戸時代、『番町皿屋敷』(お菊さん)や『四谷怪談』(お岩さん)と並んで、よく演じられた幽霊ものです。バージョンはいくつかあるのですが、あらすじを申しますと……。


小幡小平次(こばた・こへいじ)という陰気で芝居下手な歌舞伎役者がおりました。


師匠が宇奈木(うなぎ)、通称・うなぎ太郎兵衛という名優であったのに比べ、弟子は箸にも棒にもかからぬ大根役者だったもので、格付けで下の魚とされていたコハダ、こはだ小平次と揶揄されるようになったそうでございます。


そんな小平次にあるとき回ってきたのが幽霊の役。ところがこの幽霊役、青白い顔をした陰鬱な小平次にぴったりのハマリ役でして、芝居好きの間では「幽霊小平次」といわれるほど評判になりました。


さて、小平次にはお塚という気の強い女房がおったのですが、このお塚、うだつのあがらぬ亭主に心底愛想を尽かし、亭主の仕事仲間、太鼓打ちの左九郎という男と密通……、今でいうところの不倫をしておったんですな。


お塚が左九郎に囁きます。
「お前さん、そろそろ、やっちまっておくれよ」


一座が奥州へと興行に赴いた、ある雨の日。左九郎は小平次を釣りに誘うと、頃合いを見計らい、エイヤと冷たい沼に小平次を突き落とします。


もがき這い上がろうとする小平次。その頭を激しく板で打ちつける左九郎。カッと目を見開き、口からゴボッ、ゴボゴボッと泡を吐きながら、血まみれの小平次は暗い沼の底へと沈んでいったのでございます。


小平次を始末した左九郎は、江戸に戻るとお塚のもとを訪れ、ことの次第を伝えました。


ところが、お塚は「何を寝ぼけたこと言っているんだい」と部屋の奥を指差します。するとそこには、沼に沈んだはずの小平次が臥せっているではありませんか。


幽霊役を得意としていた小平次だけに、生きているのか幽霊なのか、見分けがつきません。それから、何度殺しても小平次につきまとわれた左九郎はやがて発狂し、お塚も無残な最期を遂げたのでした。


……とまあ、こんなお話。


実在した役者の奇談をもとに戯作者・山東京伝(1761〜1816)が著したこの怪談、『復讐奇談 安積沼』(ふくしゅうきだん あさかのぬま)が評判を呼ぶと、鶴屋南北(1755〜1829)がこれを脚色して上演。浄瑠璃、講談、落語などにもなったことから、小平次はお岩さん、お菊さんと並ぶ日本を代表する幽霊となりました。


現代でも何度か映画化され、京極夏彦はこの題材を下敷きにした『覘き小平次』で山本周五郎賞を受賞しています。


ご存じのようにコハダはコノシロの若魚です。コノシロはマイワシなどと同じニシン目ですが、ニシンやマイワシと違って大きな回遊はせず、内湾や河口の汽水域に群れをなして生息する魚です。


コノシロの漁獲量を調べてみると、2020年のデータでは千葉県が1609tと最も多く、2番目が神奈川県の699t。二県の主な水揚げ地には船橋、富津、横須賀などがありますから、いわば東京湾を代表する魚のひとつといっていいでしょう。


ですが、江戸の武士は、コノシロを焼くは「この城を焼く」に通じると、この魚を嫌いました。


また、コノシロは昔は「ツナシ」と呼ばれていたのですが、貴人からの結婚の申し出を断るために、焼くと人体が焦げる匂いがするというツナシを棺に入れて火葬して「娘は病死した」と娘の親が使者を騙したことから、コノシロ(娘の代)と呼ばれるようになった、という話もあります。


幽霊に落城に火葬の匂い……って、どんだけ縁起の悪い魚にすれば気が済むねんというレベルですよね。


ですが、西日本にはコノシロを丸ごと用いた姿寿司がありますし、酢漬けや焼き魚にして食べます。


もちろん焼いたからといって嫌な匂いがするわけもなく、お隣の韓国では「ジョノ(コノシロ)を焼くと、匂いにつられて家出した嫁も戻ってくる」といわれるくらい、冬に脂がのったコノシロを珍重しています。


魚偏に冬と書く「鮗」(コノシロ)という漢字も冬が旬の魚だからです。小骨は多いのですが、美味しさを見直したい魚の一つです。


とはいえ、コノシロが注目されるのは、やはりシンコ、コハダのサイズ。コノシロはシンコ(全長約4〜5cm)→コハダ(7~10cm)→ナカズミ(約12〜13cm)→コノシロ(約15cm〜)と名前が変わりますが、大きくなるほど値段が安くなる逆出世魚的とでもいうべき存在です。


コノシロの産卵期は春ですから、幼魚であるシンコは夏が始まるこれからがシーズン。7月になるとシンコ目当ての鮨好きがそわそわし始め、市場の値段もバンと跳ね上がる超高級食材になります。


鮨ダネのコハダは一匹で一貫の鮨を握る「丸付け」が主流ですが、初物のシンコは複数枚貼り付けて握ります。4枚、5枚、6枚付けと……細かくなるほど手間がかかり神経を使いますから、シンコ1貫で数千円する店もあるのだとか。


初物を食べる見栄と意地は江戸っ子の食文化の名残ともいえますが、これではおいそれと口にすることなんぞできやしません。


なにせこちとら幽霊と同じでオアシがない……おあとがよろしいようで。


*参考資料
『江戸前鮨 仕入覚え書き』(長山一夫/ハースト婦人画報社)
『令和2年漁業・養殖業生産統計』(農林水産省)

その時、歴史は動いた。「武将の舟に
飛び込んできた魚」で振り返る日本史。

《祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす》


平清盛(1118〜1181)を中心とする平家一門の興亡を描いた『平家物語』の有名な冒頭ですが、これに続いて登場するのが夏に旬を迎える魚、「スズキ」です。


清盛がまだ安芸守だったときのこと。海路で伊勢から熊野に詣でる途中、大きなスズキが飛び込んできました。案内役の修験者が「昔、周の武王の舟にも魚が飛び込んできました。これは熊野権現のご利益に違いありませんぞ」と言い、それは吉兆なことだと、みんなで食べたといいます。


このあと、清盛はトントン拍子に太政大臣まで上り詰めましたから、まさに平氏のラッキーアイテムはスズキという感じでしょうか。


武王の舟に魚が飛び込んできたというのは、〈紀元前1000年ごろの中国で、暴君で名を馳せた殷の紂王を倒そうと武王が出撃すると、白い魚が飛び込んできた。武王はこれを殷が降伏する予兆として祝い、見事、殷を倒して周を興し、名君として名を残した〉という『史記』に書かれた故事「白魚入舟」に由来するものです。ちなみにこの「白魚」は、最大1mにもなる日本にはいないコイの仲間のようです。


栄華を誇った清盛ですが、独裁は公家、寺社、武士の反発を招き、打倒平氏勢力を生み出します。鎌倉で挙兵したのが源頼朝(1147〜1199)でした。1180年、頼朝は伊豆目代の山木兼隆を討ち取りましたが、続く石橋山の戦いで大敗すると、真鶴から舟で房総半島へ逃げます。


この遁走する頼朝の舟にも魚が飛び込んだという言い伝えが鎌倉に残っています。


〈頼朝は「これは縁起がよい。今は逃げるが、次は勝つ。以後この魚をカツオと呼ぼう」と硯の墨に指をつけて魚の体に平行線を引くと、海に逃がした。以来、カツオの腹には黒い縞がつき、カツオは源氏の守り神になった〉(『伊勢吉漁師聞書―鎌倉市腰越の民俗』)


源平の旗印は源氏が白旗で、平家が赤旗です。清盛の舟に白身魚のスズキ、頼朝の舟には赤身魚のカツオと、互いに逆の色の魚が飛び込んでいるのは面白いですね。宿敵を平らげるというメタファーなのかもしれません。


平家を滅ぼした頼朝は、鎌倉に幕府を開府(1185年? 諸説あり)しました。江戸幕府が終わるまで、約700年続く武家政治の始まりです。


1333年、鎌倉幕府を倒したのは、後醍醐天皇を中心とする足利尊氏、新田義貞、楠木正成らの連合軍。なかでも、天然の要塞で不落といわれた鎌倉を攻め、北条得宗家を滅ぼしたのが新田義貞(1301〜1338)でした。


『太平記』によると、新田義貞の舟にも魚が飛び込んでいます。


鎌倉幕府を倒したものの、連合軍は分裂。足利尊氏と後醍醐天皇との間で争いが発生すると、義貞は後醍醐天皇側の総大将として豊島河原の合戦(1336)に大勝。尊氏は九州へ落ち延びました。


しかし、数ヶ月後、勢力を盛り返した尊氏に湊川の合戦で敗北した義貞は、この戦いで軍事の天才・楠木正成を失い、さらには後醍醐天皇の裏切りにもあい、絶体絶命の大ピンチに陥ります。


義貞は天皇の息子の恒良(つねよし)親王、尊良(たかよし)親王を奉じ、越後を拠点に戦うべく、北陸の金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)へ赴きましたが、足利軍に包囲されてしまいます。


戦いは一進一退の膠着状態。魚が飛び込んできたのは、雪見と称して敦賀湾に舟を浮かべ、各々楽器を持ち寄り、セッションしている最中のことでした(両親王は琵琶、義貞は横笛、洞院実世は琴、義貞の弟・義助は箏の笛)


何という魚かは定かではありませんが、やはり史記の故事を例にこれを喜びます。しかし、戦いは好転することなく義貞は敗れましたから、魚は幸運のサインではなかったようです。


『史記』が当時の知識人の教養だったとすると、ほかにも魚が飛び込んだ記述があるかも? と思い調べてみると、『応仁記』にありました。応仁の乱の主役の一人、足利義視(1439〜1491)のところにも飛び込んでいます。


応仁の乱(1467〜1477)をざっくりいうと、跡継ぎがなかなかできなかった8代将軍足利義政は、出家していた腹違いの弟・義視を還俗させて後継者にしました。ところが、義政の妻・日野富子に男子(義尚)が生まれたことで、ややこしくなります。


富子は我が子を将軍にと山名宗全に後ろ盾を依頼し、義視も山名のライバル細川勝元に助けを求めます。優柔不断な義政の態度に加え、有力大名の権力争いもあって対立は激化。幕府と大名は東軍、西軍に分裂して10年以上も争い、京の都は焼け野原となりました。


『応仁記』によると、足利義視が伊勢に向かおうと、琵琶湖西岸から舟で東岸に渡る途中、飛び込んできたのは清盛と同じく大きなスズキで、ここでも、これは縁起がいいと酒盛りになったそうです。


琵琶湖にスズキ? と疑問に思われるかもしれませんが、スズキは浸透圧調整能力が高い魚で、アユなどを狙って河川にも入り込むことが知られています。おそらく明治時代に瀬田川(淀川に続く)に堰ができるまでは、大阪湾のスズキが琵琶湖まで遡上することもあったのでしょう。


結局、義尚が9代将軍、義視の息子の義稙(よしたね)が10代将軍になりましたから吉兆のサインといえなくもありませんが、応仁の乱後も明応の政変などゴタゴタが続き、幕府・将軍の権威は完全に失墜していくので微妙です。


こうして世は下克上、戦国時代へと突入していきます。


以上、政権交代の激動期に飛び込んできた魚の逸話を集めてみましたが、結構、飛び込んでいるものですね。


スズキは成長するにしたがいヒカリゴ(5cm前後)→コッパ(10cm前後)→セイゴ(25cm前後)→フッコ(30〜40cm)→スズキ(60cm)と名前を変える出世魚の代表的存在です。


ただ、こうして歴史を振り返ると、出世するもしないも夢、勝つも負けるも幻。《猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ》だなあ……としみじみと感じるのであります。


*参考資料
『魚々食紀』(川那部浩哉/平凡社新書)
『文学とすし』(大柴晏清/栄光出版社)

60年前の小津安二郎監督の遺作と、
激変した結婚観とサンマの漁獲量。

小津安二郎の遺作となった『秋刀魚の味』は、今からちょうど60年前の1962年11月に公開されました。64年の東京五輪まであと2年。映画は高度経済成長のシンボルでもある京浜工業地帯の風景から始まります。


妻に先立たれた初老の男が娘を嫁に出すという小津監督定番の変化する家族の機微を描いたドラマですが、今見ると、さすがにこれはアウトだろうというセクハラ、パワハラの台詞が散見されます。


上司が女性社員に対して「どうなの、君、お嫁にいく気ないの?」「そんなこと云ってたら、いつまで経ったって、君、お嫁にいけやしないよ」「そりゃいけないよ。そのままお婆ちゃんになっちゃったら困るじゃないか」……。


ああ、なんと恐ろしい発言でしょう。今なら吊し上げられること請け合いです。それにしても、おじさんたちの縁談話の好きなこと。


年齢設定は主人公・平山周平(笠智衆)57歳、娘・路子(岩下志麻)24歳。「もうそろそろいかないと……。お前も二十四だからね」と周平は娘に言います。


62年当時の女性の平均初婚年齢は24.5歳(男性27.3歳)。24歳を過ぎたら「クリスマスケーキ(売れ残り)」と言われる時代でした。


売れ残りとはひどい言い方ですが、60年代前半、25〜29歳女性の未婚率は約20%ですから、8割が結婚していたわけです(現在25〜29歳女性の未婚率は6割超)


また、映画のなかで、路子は意中の男性に恋人がいることを知り、父の勧める相手と見合いして嫁いだように、右肩下がりにあったとはいえ、60年代前半までは見合い結婚が恋愛結婚の件数をギリギリですが上回っていました。(60年代後半に逆転。現在は約9割が恋愛結婚)


60年安保、浅沼稲次郎刺殺事件、国民所得倍増計画……。62年にはテレビの受信契約が1000万を突破する一方で、映画の観客数は4年前のピークの半分に落ち込みました。


時代が大きく動くなか、変わらない小津の作風は「若者の動きは、フィックスのローポジでは掴めない。キャメラは対象を追うものだ。待っていてフレームの中に入る筈がない。入るのは年寄りだけだ」と、戦後世代の監督や批評家たちから痛烈に批判されもしました。


さて、『秋刀魚の味』といっても映画にサンマは登場しません。


なぜ、このタイトルになったのか。小津はこう語っています。《『小早川家の秋』を宝塚で撮影中、早く次回作の題名を決めて欲しいと、しきりに松竹から催促され、取敢えず『秋刀魚の味』とは決めたものの、腹案は何もなく、ただ、秋刀魚を画面に出すようなことはせず、全体の感じをそういうことにしようという気持ちだけであった》(キネマ旬報1964年2月増刊号・小津安二郎「人と芸術」)


それでも小津は「次回作〈秋刀魚の味〉なれば 早朝秋刀魚を食ひ 武運長久を祈りたり」(『蓼科日記』61年11月12日)と、サンマを食べてシナリオ執筆に取り掛かりました。


当時の日本のサンマの漁獲量をみてみましょう。史上最高を記録したのが58年で57万5087t。『秋刀魚の味』が公開された62年も48万3160tと豊漁です。


近年はといいますと、ご存じのように不漁続き。漁獲量は2019年が4万517t、20年2万9566t、21年1万8291t……。60年前とは桁が違う、なんとも悲しい数字であります。


7月に東京豊洲市場にサンマの初入荷がありましたが、《極端な不漁のため入荷はわずか10匹のみ。貴重品のため卸値は、同市場では過去最高値の1キロ当たり12万円、1匹だと1万3200円が付いた。》(時事通信7月15日)


庶民の味、平凡な日常生活の象徴だったサンマですが、残念ながら、今年もまたお預けのようです。


話を映画に戻しましょう。『秋刀魚の味』にサンマは登場しないと書きましたが、実はシナリオ段階では「サンマ」はあった……ともいえます。


主人公・周平が、旧制中学時代の恩師で、現在はうらぶれたラーメン屋を営む佐久間(東野英治郎)の店を訪れるシーン。そこに常連風の男(加東大介)がやってきて、チャーシューメンを注文します。


しかし、シナリオには……


客 (坂本芳太郎 48)「オイ、サンマーメン!」


チャーシューメンではなく、「サンマーメン」と記されているのです。


サンマーメンはサンマ入りラーメンではありません。戦後の横浜が発祥といわれる、醤油味ベースのラーメンに、肉・もやし・白菜などを炒めた熱々のあんをかけたものです。


もしかすると、この台詞は「『秋刀魚の味』なのにサンマが登場しないのは看板に偽りありだから、サンマーメンにしておこうか。なに、本番で変えりゃいいよ、ふふふ(笑)」みたいな、小津監督の茶目っ気なのかもしれません。


『秋刀魚の味』が公開された翌年の63年12月12日、奇しくも60歳の誕生日に小津は他界しました。


家族のなにげない幸せな団欒の時間が、結婚や老いによって静かに欠けていく様子を見つめ、それが時の流れというもの。寂しいけれど、それでいいんだ。そんな移ろう家族の肖像を繰り返し描いた小津ですが、自身は生涯独身でした。


60年代前半は生涯未婚率(50歳時点で未婚の人)男性1.26%、女性1.88%と、ほぼ全員が結婚する時代でした。現在の生涯未婚率は男性26.7%、女性17.5%。ソロで生きるのも珍しくなくなりました。


結婚観・家族観、そしてサンマの漁獲量もこの60年で大きく変化しました。『秋刀魚の味』のほろ苦さは、伝わりにくい時代になったのかもしれません。


*参考文献
『小津安二郎作品集Ⅳ』(井上和男編/立風書房)
『絢爛たる影絵 小津安二郎』(高橋治/岩波現代文庫)
『小津安二郎の食卓』(貴田 庄/芳賀書店)
『晩秋の味』(尾形敏朗/河出書房新社)
『小津安二郎〈人と芸術〉』(キネマ旬報1964年2月増刊)
「人口動態統計」(厚生労働省)
「漁業・養殖業生産統計年報」(農林水産省)

14年かけた高校生たちの快挙。
はるか宇宙まで届いた鯖缶詰街道。

2020年11月27日。宇宙飛行士の野口聡一さんがYouTubeに投稿した、国際宇宙ステーションで福井県立若狭高校の「サバ醤油味付け缶詰」を食べる動画は大きな話題となりました。


2004年にスタートした宇宙航空研究開発機構(JAXA)の宇宙日本食プロジェクトは07年に29品目が初めて認証され、若狭高校のサバ缶は約10年後の18年にJAXAから認証を受けました。


22年9月現在、カレー、ラーメン、焼き鳥、羊羹など28社(団体)50品目が宇宙日本食として認証されていますが、ほとんどは大手食品メーカーが開発したもので、作り手が高校生というのは異色です。


認証のハードルは高く、常温で1年半以上の賞味期限があること、高い水準の衛生管理体制が整備できていることなど様々な条件があります。


しかも、材料や最終製品の段階で微生物検査や官能検査、時間のかかる保存試験など数々の試験が行われますから、問い合わせから認証を受けるまでに順調でも約3年かかるといわれています。


さらに、正式メニューと認められれば、製造元は宇宙飛行に合わせて製造し、納品する責任も伴います。


この難関をクリアする製品を高校生が開発し、さらに製造をも担う。そんな宇宙食なんて、世界でも例がありません。どうやって高校生たちは世界初の快挙を成し遂げたのでしょう。


詳しく知りたい方は、今年6月に発売された、宇宙食サバ缶作りに取り組んだ高校生たち300人の14年に渡る軌跡を描いたノンフィクション『さばの缶づめ、宇宙へいく』(小坂康之、林公代・著/イースト・プレス)をお読みください。


宇宙食サバ缶の開発は、1895年開校という日本で最も歴史のある水産高校、福井県立小浜水産高校(通称:浜水)でスタートしました。


きっかけは2006年、HACCP*の取得でした。


2021年6月から日本でもすべての食品事業者にHACCPによる衛生管理が義務付けられましたが、2000年代初頭は「HACCPなんて資金的に余裕のある大企業が最新機器を揃えて初めて認証を取ることができるもの」、「あんなもん、金ばかりかかって、役に立たない」という認識が一般でしたし、第一どうやって取ればよいかもよくわからない状況でした。


コンサルに相談してみると、HACCP取得にかかる見積もり額は1億円。予算の少ない公立高校が支払える金額ではありません。ところが浜水の先生と生徒たちは知恵と工夫で、300万円でこれを達成してしまいます。


2007年、授業でHACCPがNASAの宇宙開発とともに生まれた基準だと知った生徒が「なら、うちでも宇宙食作れんのとちゃう?」と冗談まじりにつぶやいた一言が宇宙食サバ缶を予言していたのですが、実現するとは誰も思ってもいませんでしたし、その道のりは困難を極めました。


なかでも、人口減少に伴う高校の統廃合で、教育困難校でもあった浜水と地域トップの進学校である若狭高校との統合は大きな軋轢を生みました。それを生徒たちが乗り越え、浜水の流れを組む海洋学科が若狭高校の顔になってゆく様子だとか、報道されていない話が満載でとても面白い本です。


さて、2020年、宇宙食サバ缶のニュースが流れたとき、すごいなあと思ったと同時に、疑問に思ったことがありました。缶詰のサバはどこのサバを使ったのだろう?


福井県のサバの漁獲量は、1970年代はたびたび5,000トンを超える豊漁で、80年代も3,000〜5,000トンで推移していたのですが、90年代に入ると漁獲量が激減。2000年代以降は概ね100トン台で推移しています。


小浜をみても最盛期の1974年には田烏(たがらす)漁港だけで3,580トンも水揚げされていたのですが、近年はわずか1トンしか揚がっていません。


小浜といえば、京都と若狭を結ぶ鯖街道の起点です(あれ? そういえば、若狭は「じゃくさ」とも読めますね。ま、いいか)


「京は遠ても一八里」。72キロの道のりですから、約20時間。塩をした新鮮な鯖は京都に到着するころには塩がなじんで美味しさを増し、京都の鯖寿司に欠かせませんでした。


「へしこ」「焼き鯖」「なれずし」などの郷土料理でも知られ、「小浜=サバ」というイメージが定着しているのに、肝心のサバが減ってしまっているので、どこのサバを使っているのだろう? と気になったわけです。


本を読むと、答えが書かれていました。〈よっぱらいサバ〉だったのです。


〈よっぱらいサバ〉とは、地域の食文化を守ろうと小浜市が中心となり、2016年に始まった「鯖、復活プロジェクト」から誕生した養殖サバです。


小浜市漁業協同組合、福井県立大学、福井県栽培漁業センター、KDDIなどの協力を得ながら研究は進められ、鯖街道の終点、京都の酒蔵でつくられた酒粕を練り込んだ餌を与えることで、生臭さを抑え、脂ののった美味しいサバの開発に成功しました。


宇宙食サバ缶はこの地元の養殖サバを使っていたのです。


野口宇宙飛行士の配信動画で、若狭高校の宇宙食サバ缶は一気に有名になりました。


高校生たちは次のプロジェクトに取り組みます。長年の研究成果を地域活性化につなげたい。「全国の人に食べてもらって、利益を地域に還元できたら」と宇宙食サバ缶の商品化を模索しました。名付けて『宇宙鯖缶地上化計画』。


高校での缶詰製造は手作りですから生産量が限られていますし、高級な〈よっぱらいサバ〉を使うとコストがかかりますから事業としては成り立ちません。


生徒の熱意に応えて地元企業が協力します。生徒たちのアイデアである「くず(葛)」でとろみを付ける作業を機械化し、量産を可能にしました。原料もノルウェーさばにすることでお手頃価格にできました。


こうして現在、〈よっぱらいサバ〉を原料とする缶詰『夢の宇宙へ 鯖』(80g/2,000円)とノルウェーさばが原料の缶詰『若狭宇宙鯖缶』(90g/756円)という2種類のサバ缶が「道の駅若狭おばま」などで販売されています。


若干お高めですが、なんといっても「宇宙に行った味」です。サバ好き、缶詰愛好家なら一度は食べてみたいもの。宇宙ステーションで汁が飛び散らないように普通の缶詰よりも粘度が高めで、フォークでも食べやすい柔らかさ。味付けは味が薄く感じる宇宙空間に合わせて濃いめになっています。


本サイトのWeb版解説ノートで、日本で獲れたサバが遠くアフリカの内陸にまで運ばれている現代版の鯖街道について触れましたが(詳しくはこちら)、高度400キロの宇宙にまで伸びていたというのは驚きですね。


さて、最後に告知です。サバ好きにはたまらない日本各地のサバが味わえる『鯖サミット』が3年ぶりに、今年は10月29、30日に松浦市文化会館(長崎県松浦市)で開かれます。詳しくはこちらをご覧ください。


*HACCP(ハサップ)は、「Hazard(危害)」「Analysis(分析)」「Critical(重要)」「Control(管理)」「Point(点)」の頭文字に由来する衛生管理手法で、作業過程を整理・分析・管理することで製品への危険物質の混入リスクを減らす工程管理システム。
従来の抜き取り検査に比べて、問題のある製品の出荷を効率的に防げるだけでなく、製造工程のどの段階に要因があったのかが迅速に調べられるのでスムーズな対処が可能である。

フグは食いたし、命は惜しし。
フグの肝が食べられる日は来るか?

2009年、81回米アカデミー賞外国語映画賞に輝いた滝田洋二郎監督の『おくりびと』。脚本を担当した小山薫堂さんはこれが初の映画でしたが、『料理の鉄人』を手掛けた放送作家だけあって、食事のシーン、圧巻でした。


職を失い故郷の山形に戻ったチェロ演奏者の小林(本木雅弘)はひょんなことから納棺師・佐々木(山崎努)の手伝いを始めましたが、遺体を扱う仕事に迷いも覚えます。雪の降るなか佐々木を訪ねると、長火鉢で白くて丸い大きなマシュマロのようなものを焼いていました。


小林
「なんですか、これ?」
佐々木
「フグの白子……炙って塩で食うとウマいんだ」


両手の指先で熱々の白子をつかみ、チューチューと吸うようにむさぼる佐々木。悶絶の表情を浮かべ、一息つくと静かに語り出します。


佐々木
「これだってさ……、これだってご遺体だよ」
「生き物は生き物を食って生きている……だろ?」
「死ぬ気にならなきゃ、食うしかない」
「食うならウマいほうがいい」


フグって毒があるんじゃないの? 恐る恐る白子を頬張る小林。口いっぱいに広がるエネルギー溢れる濃厚な衝撃。


佐々木
「ウマいだろ?」
小林
「う、ウマいっすね」
佐々木
「ウマいんだよなあ…………、困ったことに」


納棺という仕事を通して、交差する生と死、命のバトンタッチと許す心の尊さを描いた映画に、フグの白子はふさわしいメニューといえるでしょう。


フグの骨は貝塚からも発見されているように縄文時代、いえ、もっと昔から食べていたでしょうから、数えきれないほど多くの人がフグの毒で亡くなったはずです。それでも人はフグを食べ続け、食べていいフグ、いけないフグ。食べていい部位、ダメな部位を、文字通り身をもって知ることで、安全な食べ方を学んできました。


死ぬかもしれないものをなんでわざわざとも思いますが、美食家で有名な北大路魯山人はフグこそ美食の頂点だと断言しています。


《日本の食品中で、なにが一番美味であるかと問う人があるなら、私は言下に答えて、それはふぐではあるまいか、と言いたい。》(「海にふぐ山にわさび」)


フグの美味しさと毒の怖さは江戸時代も人々を迷わせました。そこまでして食べなくても派とでもいいますか、松尾芭蕉は〈河豚汁や 鯛もあるのに 無分別〉という句を詠んでいます。


一方、〈河豚食わぬ 奴には見せな 不二の山〉と詠んだのは小林一茶。「フグの美味しさを知ろうともしない奴に富士山を見せてもその見事さはわからない」とフグ推し派です……といっても、〈五十にて ふくとの味を 知る夜哉〉の句もあるように、フグの毒を用心して50歳を過ぎるまで食べなかったそうですが。


《河豚食うは 一人渡りの大井川 河豚食わぬ 人に語るな河豚の味》


幕末の博徒、清水の次郎長を一躍有名にした浪曲師・二代目広沢虎造(1899〜1964)の『清水次郎長伝』にもフグ騒動が登場します。


《これからフグでいっぱい飲もうってやつを親分がそばで見ていて、「素人料理のフグは物騒だからよしたほうがいいゼ」と止めたんで。「そうスか、じゃあ、よしやしょう」とよした人はよかったが、「なぁに親分、ワシなんぞしょっちゅうやってんだ、大丈夫っスよ」なんてんで、親分の言うことを聞かずに食べた人が27人。サァ、苦しがって即死が11人。あとの16人は苦しがっただけで命は助かりましたが、とにかく11人がいっぺんに死んだんですから、次郎長びっくり》(二代目広沢虎造「追分三五郎」より)


次郎長一家のフグ中毒の話はたちまち尾鰭がついて広がります。「フグにあたって一家ほぼ全滅、次郎長も虫の息」という噂を耳にしたのが、次郎長の子分・森の石松を騙し討ちにして次郎長一家からの報復を恐れていた都鳥一家。これ幸い、今こそ次郎長の寝首を掻くチャンスと清水港へと向かいました。


清水まであと十町ばかりの追分宿に着いたのが正午少し前。「チョッと早すぎやしねぇか? 人殺しは夜中に限る。その前に腹ごしらえだ」ってんで、料理屋で景気付けとばかりに飲みはじめたんですな。


しかし、追分宿は次郎長のホームグラウンド。情報網が蜘蛛の巣のように張り巡らされております。都鳥一家の動向を察知した次郎長は、大政、小政、大瀬の半五郎、法印の大五郎ら11人で乗り込み、都鳥一家を曲斬りにして可愛い子分の仇をとったァ……ってのが、「追分宿の仇討ち」の一席。


次郎長一家のフグ中毒事件は実話ですが、11人即死というのは「講釈師、見てきたような嘘を言い」でして、実際に死んだのは2人という記録が残っています(襲撃実行部隊も11人ではなく6人)


一般的にフグの毒が強いのは皮、肝臓、卵巣ですが、種によって毒が存在する部位も毒の強さも異なります。映画『おくりびと』で描かれたフグの白子も全てのフグが無毒なわけではなく、クサフグ、コモンフグ、ヒガンフグなどの精巣には毒があります。


また、フグの毒は生息する海域によっても異なります。


厚生労働省のサイト(「自然毒のリスクプロファイル:魚類:フグ毒」)に日本沿岸でみられる21種のフグの可食部位(肝臓・卵巣・精巣・皮・筋肉・腸)の一覧が載っています。


これによると、ナシフグは原則的にはどの部位も食用不可ですが、「ただし、筋肉は有明海、橘湾、香川県および岡山県の瀬戸内海で漁獲されたものに限り食用可。精巣は有明海および橘湾で漁獲され、長崎県が定める要領に基づき処理されたものに限り食用可。」と記載されています。


またヒガンフグとコモンフグの筋肉は基本的に食用可ですが、「岩手県越喜来湾および釜石湾ならびに宮城県雄勝湾で漁獲されるヒガンフグについては食用不可」と注意書きがあります。


しかも、フグ毒は個体差も大きいから始末が悪い。


フグ毒研究の第一人者が、猛毒といわれるトラフグ(天然)の肝を調べたところ、《驚くべきことに無毒、弱毒、強毒の割合がほぼ3分の1ずつであった。つまり、トラフグの肝を食べても必ず中毒になるわけではなく、命に別状がない場合もあることになる。》(『フグはフグ毒をつくらない』野口玉雄/成山堂書店)


青酸カリの1000倍の毒性をもつといわれるフグの毒ですが、食べた人全員が即死したら、美味しさは伝わりません。大丈夫だった人がそのウマさを口にするものだから、また死ぬ人が現れる。


フグの部位のなかでも一番ウマいといわれるのが肝臓ですが、人間国宝の八代目坂東三津五郎がフグ肝を食べて中毒死した事件(1975年)などをきっかけとして、厚生省(当時)は1983年に、種類を問わず、フグの肝の食用を全面的禁止としました(違反した場合は、3年以下の懲役又は300万円、法人の場合は1億円以下の罰金)


フグが毒を持つメカニズムは、食物連鎖で毒が蓄積するという説が有力です。ならば養殖フグの肝なら安全なのではないか、とも考えられます。


2004年、5000匹の養殖フグの肝臓が全て無毒だった実験結果をもとに、佐賀県は国の構造改革特区制度の指定を申請しました。


これはトラフグを陸上養殖して、検査で無毒と認定されたトラフグとその肝を、嬉野温泉の飲食店や旅館でのみ提供し、味わってもらうという、いわば「フグ肝特区構想」。生産から流通までを完全に管理し、温泉とフグ肝を看板に観光客を呼び込み、町おこしに繋げようというものでした。


しかし、厚生労働省は「無毒のフグを確実に生産する方法が、科学的見地から確立しているとはいえない」とこの申請を却下。フグの肝食解禁には至りませんでした。


研究は現在も続いています。もしかすると、近いうちに無毒化したトラフグの肝が食べられる日がくるのかもしれません。食いしん坊には待ち遠しいですね。


ちょうど時間となりました。本日はここまで。


*参考文献
『魯山人味道』(北大路魯山人/中公文庫)
『フグはフグ毒をつくらない』(野口玉雄・著/成山堂書店)
『猛毒動物の百科』(今泉忠明・著/データハウス)
『誰も書かなかった清水次郎長』(江崎惇・著/スポニチ出版)
『清水次郎長――幕末維新と博徒の世界』(高橋敏・著/岩波新書)

干しダラ食って「海賊王にオレはなる!!」
ロナウドが愛した高タンパク低脂肪食材。

サッカー史上最高の選手とも評されることの多いスーパースター、クリスティアーノ・ロナウドは1985年、ワインで有名なポルトガルのマデイラ諸島で生まれました。FIFAワールドカップ・カタール大会開幕時点で37歳とフォワードにしては高齢ですが、技術、スピード、パワー、スタミナともに衰えを知りません。


その秘密は、持って生まれた優れた身体能力に加え、誰もが驚くハードなトレーニングと徹底した食事管理にあるといわれています。最高のコンディションを保つために高タンパク低脂肪のメニューが中心なのは当然としても、食事を6回に分け、疲労回復&消化をよくするために5回昼寝をしているのだとか。


昨年、12年ぶりにマンチェスター・ユナイテッドに復帰したC・ロナウドはクラブの定番メニューに、ある料理をリクエストしました。


それは「バカリャウ・ア・ブラース」。バカリャウ(塩漬けされたタイセイヨウマダラの干物)とジャガイモと玉ねぎを炒め、卵でとじるというポルトガルの伝統料理でした。


C・ロナウドはなぜ、この料理を望んだのでしょうか。


ポルトガルは世界の魚消費量ランキング(国民一人当たり)で4位(2017年)。魚好きを自負する我が国(6位)以上に魚を食べています。ちなみに1位はアイスランド、2位モルジブ、3位香港、5位が韓国。(出典: FAO Fish and seafood consumption per capita,2017)


ポルトガル人はマグロ、カジキ、イワシ、ウナギなど日本でもお馴染みの魚を食べていますが、最も人気があるのがタラなのだとか。


故郷のソウルフードだから、メニューに入れて欲しかったのでしょうか。いえ、たぶんそうではないと思います。


タラの栄養成分を見てみましょう。マダラ(生)の場合、可食部100gあたりのタンパク質は17g以上もあるのに、脂質は0.2gと極端に脂気のない魚です。


これを干しダラに加工すると約80%を占める水分が蒸発して100gあたりタンパク質が73gにまで濃縮されます。(出典:文部科学省『日本食品標準成分表』)


まさにプロテインの塊。干しダラはアスリートの理想の食事である高タンパク低脂質食材なのです。


でも、タラの漁場は北の冷たい海です。なぜ、ポルトガルの国民食にバカリャウはなったのでしょうか。


時代は8世紀に遡ります。


スカンジナビア半島のノルウェーでは、太古からタラを食べてきました。漁期はタラが産卵のために沿岸に近づく2〜4月ですから、そのときに一挙に漁獲した大量のタラを保存する必要がありました。


魚の保存というと塩漬けを思い浮かべますが、北欧は日照時間が短く製塩に向いていないため、塩は潤沢ではありません。


代わりに寒冷な気候をいかしました。捌いたタラを屋外に干すと、凍っては溶けるのを3ヶ月ほど繰り返し、カチカチになるまで干してから、乾燥した風通しのよい屋内に移して最長12ヶ月、熟成させたのが「ストックフィッシュ」(素干し)です。タラは脂質がほとんどないので乾燥させやすいのです。


ストックフィッシュは腐らないだけでなく、軽く、かさばらないので、航海の常備食にもってこいでした。


ノルマン人は豊富な木材資源を用いて、航海に優れた船を開発しました。彼らが製造するヴァイキング船は吃水が浅く大型船でも河川を航行でき、船首と船尾が同型なので方向転換も容易で、帆以外にオールで漕ぐこともできるから小回りがきくという、戦闘能力抜群の船です。


9世紀頃から地球は温暖化に向かい、凍結していた北の海が溶け始めると、解き放たれたように、勇猛果敢なノルマン人の民族大移動が始まりました。いわゆるヴァイキングの時代です。


海を西へ向かったヴァイキングたちは、コロンブスよりも約500年も早く、西暦1000年ごろに現在のカナダのニューファンドランド島に上陸しています(先住民の抵抗にあい、入植は断念)


北西フランスに上陸したヴァイキングは、沿岸部を制圧するとさらにセーヌ川を遡りノルマンディー公国を建国し、地中海に進出したグループは、南イタリア&北アフリカにシチリア王国を建国しました。


イングランドに侵入したヴァイキングは、クヌート大王(990?〜1035)の時代にイングランド全土に加え、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン南部を支配下に置く北海帝国を築きます。


絵に描いたような「海賊王にオレはなる!!」ですね。


長期航海用の食糧として、また戦時の兵糧としてヴァイキングが重宝したのが、ストックフィッシュでした。


14世紀になると、ハンザ同盟がストックフィッシュの売買を独占するとともに、販路を広げ、ヨーロッパ中にその美味しさを広めます。


15世紀になると、スペインやポルトガルの漁民もタラを求めて、北の海に遠洋漁業に出かけるようになりました。彼らには地中海で製塩された豊富な塩があったので、この塩を使った、一度タラを塩漬けにしてから天日干しにする「クリップフィッシュ」(塩干し)が登場します。


塩をすることで味がよくなるとともに、保存期間もさらに伸び、より長期の航海が可能になりました。この塩干しダラが大航海時代、コロンブス(1451?〜1506)、ヴァスコ・ダ・ガマ(1460?〜1524)、ピサロ(1470?〜1541)、マゼラン(1480〜1521)たちの胃を満たしたのです。


しかも、船乗りだけでなく、キリスト教会の影響が強かった中世では、復活祭の時期や金曜日には獣肉を口にせず、魚を食べるという決まりの日がありましたから、庶民の需要も多かったのです。


塩干しダラは、時間をかけて水戻しして、スープ、オムレツ、パイ包み、コロッケなど様々な料理の具として使われました。


《十六世紀半ばには、全ヨーロッパで消費される魚の実に六十パーセントがタラとなり、以後二世紀の間この数字は変わることがなかった》(『鱈 世界を変えた魚の歴史』)


中世と現在では食習慣は大きく異なりますが、カトリック教徒の多いポルトガル、スペイン、イタリアなどの国では、今でも金曜日には魚を食べるという伝統が残っています。


さて、大航海時代、干しダラを食べながら海を渡り、新大陸を征服した人々がヨーロッパに持って帰り、栽培を始めたもののひとつがジャガイモです。


14世紀頃から地球は「小氷河期」と呼ばれる寒冷な気候に移行していきます。このため中世ヨーロッパの主食であった豆や麦といった農作物はたびたび不作となり、飢饉が人々を襲い、大量の餓死者が出ていました。


小氷河期は19世紀半ばまで続きました。この間、深刻な食糧不足をなんとか乗り越えることができたのは、痩せた土地、寒冷な土地でも育つ新大陸からもってきたジャガイモのおかげだともいえます。


……ということはですよ、ロナウドがマン・Uに提案した干しダラとジャガイモを合わせた「バカリャウ・ア・ブラース」は、旧大陸と新大陸を融合させた料理だともいえます。さすがロナウド、スケールがでかい。


大航海時代は、ポルトガルのエンリケ航海王子(1394〜1460)が派遣した探検隊が、マデイラ諸島に到達した1418年に始まるといわれます。マデイラ島にはその後コロンブスや、ペリー提督も寄港しています。


そんな歴史ある、干しダラともゆかりの深いマデイラ島で生まれたC・ロナウド。カタール大会ではどんなスーパープレーを見せてくれるのでしょうか。わくわくします。


*追記 2022年11月22日、C・ロナウドとマンUは契約を解除することで双方合意。C・ロナウドは無所属でW杯に参加。初戦のガーナ戦で史上初となる5大会連続ゴールを記録した。


*参考文献
『欧州 旅するフットボール』(豊福 晋/双葉社)
『鱈 世界を変えた魚の歴史』(マーク・カーランスキー/飛鳥新社)
『魚で始まる世界史』(越智敏之/平凡社新書)
『ジャガイモの世界史』(伊藤章治/中公新書)
『歴史を変えた気候大変動』(ブライアン・フェイガン/河出書房新社)

魚介類の鍋でみなさんはお何が好きですか? カニすき、鱈ちり、河豚ちり、エビチリ……。おっと、エビチリは鍋ではありませんね。


冬の鍋の代表として「西のふぐ、東のあんこう」と称されるアンコウですが、東の人にお聞きしたい。アンコウ鍋って食べますか? アン肝は食べても、鍋はどうです? 食べる機会がなさすぎて、え? アンコウが代表なの? と戸惑うのではないでしょうか。


どちらかというと、アンコウの立ち位置はフグよりもズワイガニ(松葉がに、越前がに)に似ている感じがします。


観光がてら産地に出かけ、宿にチェックインして、温泉に浸かり、浴衣に着替えて期待を膨らませ、「夕食の準備できました」という仲居さんの声がけで、「待ってました!」となる……そんなイメージ。


というわけで、今回はアンコウを食べに行ってまいりました。


アンコウといえば、やはり茨城。県のプライドフィッシュでもあります。ただ、茨城といっても広い。本場は県中北部……那珂川より北側、いわゆる旧水戸藩領でしょうか。


県全体のアンコウの3分の1を漁獲しているのが、福島県境にある底曳網漁の盛んな平潟港。しかも、平潟地区はアンコウ鍋のルーツである「どぶ汁」発祥の地といわれています。宿はここに決めました。


アンコウ鍋は醤油仕立てが一般的ですが、漁師料理の「どぶ汁」は、水を使わずに、アンコウと野菜から出る水分だけで煮ます。漁師にとっては、船上でなにより貴重な水を使わずに済む料理だったのです。


鮮度のいいアンコウの肝を、土鍋で乾煎りしてから、下処理した7つ道具と呼ばれるアンコウの「皮・エラ・水袋(胃)・トモ(ひれ)・柳肉(身)・肝・ヌノ(卵巣)」に大根を加え、味噌で味を整え、ぐつぐつと煮ます。


店にもよりますが、訪れた宿ではネギも豆腐も入れません。アンコウと大根のみという潔さ。ゆえに見た目は、うす茶色、茶色、こげ茶色。まるでインスタ映えしません。


味はクリーミーなコクがありますが、あん肝から想像するほどまったりはしていません。部位によって食感が異なり、皮なんてプルンプルンしていて、コラーゲンたっぷり。熱々をちゅるちゅる啜る感じ。割下のようなスープはありませんから、〆のおじやも鍋に残った少ないスープだけで作ります。


いやあ、美味しかった。温泉&どぶ汁で、体の芯からぽっかぽか。お肌もツルツルになりそうです。アンコウはやっぱり、北茨城に限りますね。


「でも、漁獲量が多いのは下関ですけどね」と教えてくれたのは宿のご主人。下関産アンコウのブランド化も進んでいるのだとか。いやいや、下関はフグでしょう。アンコウも下関となると、西も東も下関が独り占めじゃないですか。


「やってくれたな、長州。また独り占めか」と、幕末に散った水戸の志士なら悔しがるのではないでしょうか。


明治維新の主役といえば、長州・薩摩というのが一般的な認識でしょう。しかし、迫りくる西洋帝国主義の魔の手に対し、日本も天皇を中心とした近代国家にすべきだと警鐘を鳴らし、いち早く「尊皇攘夷」を説いたのは、「水戸学」と呼ばれる藤田東湖を中心とする水戸藩の思想家たちでした。


東湖に会いたいと、多くの志士が水戸に赴きました。あの西郷どんも洗礼を受けています(吉田松陰も水戸を訪れましたが、東湖不在で面会叶わず)


九代水戸藩主の徳川斉昭は、藤田東湖のような優れた人物を身分問わず抜擢し、教育の充実、軍事強化など藩政改革に努めました。その一方で、幕府には外国人追放、大船建造、蝦夷地開拓などの国防策を主張し、政治をリードします。


この水戸学一派を粛清したのが、井伊直弼による「安政の大獄」です。御役御免、隠居、島流し……大勢の人が処分を受けましたが、死罪となった14人をみると、水戸藩が最も多く安島帯刀(水戸藩家老)ら4人。徳川斉昭も永蟄居を命じられ、処分が解けぬまま1860年9月に病死しています。


激怒した急進派の水戸藩浪士17人(+薩摩藩浪士1人)が井伊直弼を襲撃したのが「桜田門外の変」(1860年3月24日)です。


襲撃側の18人は闘死1人、重傷負い自決4人、自首後斬首7人、自首後病死3人、のちに自刃1人。襲撃された彦根藩側は、井伊直弼を含め闘死が9人、護衛失敗の責任を問われ、切腹5人、斬首5人、流罪8人。


明治維新はこの集団テロに始まるといってもいいでしょう。司馬遼太郎はこう書いています。


《暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだ事は絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外から始まる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした》(『幕末』/文春文庫)


幕府の最精鋭の彦根藩を破った勢いで、翌61年には水戸浪士・有賀半弥ら14人がイギリス公使を襲撃(東禅寺事件)。62年には、同じく水戸浪士・平山兵介ら6人が老中安藤信正を襲撃(坂下門外の変)しています(6人全員討死)


幕末の暗殺事件というと、岡田以蔵(土佐)、河上彦斎(肥後)、田中新兵衛(薩摩)、中村半次郎(薩摩)の四大人斬りが有名ですが、初期の暗殺はもっぱら水戸浪士によるものでした。


64年には藤田東湖の子である藤田小四郎を中心とする「天狗党」が挙兵。京都を目指しますが、現在の福井県敦賀で追討軍に包囲されます。捕らえられた天狗党員の数は828人。このうち352人が斬首されました。


その後も水戸藩では、過激派と慎重派の間で凄惨な藩内抗争が繰り返され、人材をことごとく失ったために、水戸藩出身者が新政府で重要な地位を占めることはなかったのです。


桜田門外の変は、季節はずれの雪が降る朝。天狗党が投降したのも雪のなか。深々と降る雪のなか、体の芯まで温まる故郷の「アンコウ鍋、食べたい」と思った志士もいたのではないでしょうか。


靖国神社には、幕末(戊辰戦争以前)の殉難者が約2900柱祀られています。最も多く祀られているのが水戸藩出身の1479柱。次いで多い長州藩が705柱ですから2倍以上です。


事件別の合祀者数をみると、天狗党の乱=1381柱、桜田門外の変=23柱、東禅寺事件=12柱、坂下門外の変=5柱、安政の大獄=4柱。


桜田門外の変や坂下門外の変の実行犯、現代の感覚でいえばテロリストも祀られているのかと驚いたのですが、おや? テロリストといえば……あれも水戸では? と思いあたることが。


日本の歴史上、幕末に次いで、暗殺事件が多発したのが昭和初期です。端を発したのは1932(昭和七)年2月から3月にかけて起きた「血盟団事件」(前大蔵大臣・井上準之助、三井財閥の総帥・団琢磨が暗殺された)


調べてみると、井上準之助を射殺した小沼正は茨城県那珂郡(現ひたちなか市)平磯町の漁師の三男で、団琢磨を射殺した菱沼五郎は同郡前渡村の農家の三男。つまり、実行犯はともに旧水戸藩領、太平洋に面した村の出身でした。おそらくアンコウ鍋も食していたはずです。


続く五・一五事件(海軍青年将校による犬養毅首相殺害)、二・二六事件(陸軍青年将校による高橋是清大蔵大臣ら暗殺)と問答無用のテロにより、日本の政党内閣政治は終わります。満州国建国、国際連盟脱退……。政権を握った軍部に世論、新聞も同調し、暴走は誰にも止められなくなります。こうして、日本は破滅への道を歩んでいきました。


歴史のターニングポイントとなった2つのテロ事件、「桜田門外の変」と「血盟団事件」。日本の夜明けのスイッチを入れたのも、破滅へのハンドルを切ったのも、実行犯は旧水戸藩領出身者。事件はどちらも寒い2月3月、アンコウ鍋の季節に起きています。


奇妙な符合です。何か理由があるのでしょうか。アンコウ鍋を食べると、血気盛んになるのでしょうか……。そんな妄想をしながら、帰路についたのでありました。


◎追記 驚くべきことに、血盟団事件の実行犯のひとり、菱沼五郎は無期懲役の判決を受けたが、1940(昭和十五)年2月、紀元二千六百年祝典による特赦で出所。小幡吾朗と改名し、戦後は大洗町で漁業会社を経営。茨城県議会議員(自民党)に当選すると、同議長や県漁連の会長を務めるなど、地元の名士となっている。1990年没(享年78)


*参考文献
『幕末』(司馬遼太郎/文春文庫)
『暗殺の幕末維新史』(一坂太郎/中公新書)
『靖国神社と幕末維新の祭神たち』(吉原康和/吉川弘文館)
『血盟団事件』(中島岳志/文春文庫)

ナマコに学ぶ、孤独という幸福のかたち。

昨年12月、密漁を防止し、密漁した魚介類を市場に流通させないための新しい法律*が施行され、ナマコの採捕及び取扱事業者は、行政機関への届出、漁獲番号の伝達、取引記録の作成などが義務付けられました。


要するに、届出のない業者や、漁獲番号のないナマコの取引はできませんよ、ということです。


ナマコの漁獲量は全国で約6100㌧。最も多いのが北海道で2281㌧。以下、青森797㌧、山口523㌧、兵庫・大分250㌧と続きます(2020年)


水産動植物の密漁は、かつては漁業者の違法操業が多かったのですが、2002年ごろから漁業者以外の密漁が急増し、2020年の密漁検挙件数(海面)1368件のうち、漁業者198件に対し、漁業者以外が1128件と圧倒的に多くなっています。


悪質な密漁が増加したことで、2018年には罰則が強化され、特に密漁が深刻なアワビ、ナマコ、シラスウナギについては、「最大で3年以下の懲役又は3000万円以下の罰金」となりました。


さ、3000万円!


これは個人に対する罰金としては最高額で、銃刀法や武器等製造法等と同じ厳しさです。


「でも、ウニとかアワビの密漁に厳しいのはわかるけれど、なんでナマコが?」という疑問も湧くのではないでしょうか。


日本では食わず嫌いの人も多いナマコですが、中華料理ではアワビ、フカヒレなどと並ぶ超高級食材です。


21世紀に入り、経済の発展とともに中国では富裕層が増加。庶民の所得も増えたことで、ナマコの需要が高まりました。


わが国の水産物の輸出総額(2020年)は2276億円。そのうち、ナマコは約200億円。ホタテ、サバ、カツオ・マグロ類に次ぐ4番目の主力輸出商品ですから、ナマコを侮ってはいけません。輸出先は、85%が香港です。


世界のナマコ・マーケットの中心である香港には、パプア・ニューギニア、インドネシア、フィリピンなど、世界各地から、低価格から高価格までさまざまなナマコが集まります。


なかでも北海道産の乾燥ナマコは最高級品で、市場価格で1kg=40~50万円もするのだとか。A5クラスの松阪牛シャトーブリアンもかないません。まさに黒いダイヤです。


ナマコはとにかく金になる。しかも、簡単に採れそうだ。


そのために密漁が横行し、暴力団など反社会的勢力の資金源になっているのだとか。そういえば、闇金の借金返済のために北の海に潜らされて、ナマコを密漁したなんていう話も耳にしますし、ナマコ投資詐欺事件なんてのもありましたっけ。


それにしても、ナマコは不思議な生き物です。


夏目漱石は『吾輩は猫である』の序文で、ナマコを喩えにこう書いています。


《此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠の様な文章であるから、たとい此一巻で消えてなくなった所で一向差さし支つかえはない。》


手足も目もなく、どちらが前か後ろかもわからない。ゴロンとただ存在する。ただただ、そこにある。生きているのか、死んでいるのかさえよく分からない。


ヒトの死を「脳死」をもってするのか、「心停止」をもってするのか、議論は分かれるところでありますが、ナマコの場合はというと……。


ナマコには目、鼻、耳といった感覚器がありませんから、感覚情報を処理する「脳」がありません。「脳死」をもって死とするならば、ナマコはすでに死んでいるということになります。


「脳死ってのは、脳が一番エラいというアタマ偏重のいびつな考え方なんだよ。なんといってもカラダが資本。心臓が止まってからのあの世だぜ」ということになるかというと……。


ナマコは血管がなく、酸素や栄養の循環は水管系と呼ばれるシステムと体腔内の体腔液が担っています。つまり「心臓」もないのです。


おぬし……、いったい何者なのだ。


ナマコの体の大部分は皮膚で、あとは体腔の水でできています。筋肉がほとんどありませんから、一部の種類を除き、動くのは苦手です。獲物を追うこともできなければ、敵から逃げることもできません。


静かに海底の砂を食み、付着しているわずかな有機物を栄養とし、皮を厚く、硬くしていったのです。大部分が硬い皮膚ですから、誰も積極的に食べようとしない。いわば食物連鎖の主戦場から離れた形で。誰からも見向きもされない生き方を選択したのです。


誰にも迷惑かけませんから、どうぞ、私のことは捨て置いてください……、そんな感じですかね。


I don’t see anything wrong with being alone, it feels great to me.
(アンディ・ウォーホール)


ナマコは『古事記』(712年)にも登場します。


そこにはアメノウズメが魚たちを集め「ニニギノミコト(高千穂に降臨したアマテラスの孫)に仕えるか?」と問いかけ、皆が「仕えますとも!」と熱狂的に答えるなか、ナマコだけは無言を通したとあります。


そのせいでナマコはちょん切られてしまうのですが、誰にもかまって欲しくなかったとはいえ、神様相手に肝が座っています。


おっと、ナマコには肝臓もないのでした。


*「特定水産動植物等の国内流通の適正化等に関する法律」(水産流通適正化法)


*参考文献
『世界平和はナマコとともに』(本川達雄/CCCメディアハウス)
『生物学的文明論』(本川達雄/新潮新書)
『ナマコ学』(高橋 明義・奥村誠一/成山堂書店)
※WEBマガジン『COLOCAL(2013年1月)に発表した記事「太くて長くて硬いのはお好き?」を大幅に加筆・修正いたしました。

アルゼンチンアカエビと
GDPの生みの親が考えた国の豊かさ

昨年12月のコラムで、サッカーW杯にちなんでC・ロナウドと「タラ」について書きましたが、優勝したのはアルゼンチン。メッシ、大活躍でしたね。


で、ふと思ったのですが、「日本は南米の国々からどんな食料を輸入しているでしょう?」というクイズが出題されたとします。


例えばブラジルからなら鶏肉やトウモロコシ、チリならサケやワイン、ウルグアイなら牛肉、コロンビアならコーヒー……と、主な輸入食料品の一つや二つは見当がつくのですが、アルゼンチンからとなると、あれ? 何を輸入していたっけ?……ってなりませんか?


調べてみると、1位は「アルゼンチンアカエビ」なんですね。日本向け農林水産物の総額の3分の1を占めていたのには、ちょっと驚きました。(『アルゼンチンの農林水産業概況』農林水産省/2020年)


ここ10年くらいでしょうか、鮮魚店などでもよく見かけるようになったアルゼンチンアカエビ。


輸入エビといえば、インドネシアやベトナムなどから輸入しているバナメイエビやブラックタイガーが有名ですが、これらが「養殖エビ」であるのに対し、アルゼンチンアカエビはアルゼンチン南部の湾で獲れる「天然エビ」です。


底曳き網で漁獲され、船内ですぐに急速凍結されるため鮮度がよく、刺身でOKというのも人気の理由なのだとか。


「世界には4種類の国がある。先進国、途上国、そして日本とアルゼンチンだ」と言ったのは、1971年にノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツ(1901〜1985。ロシア帝国、現ベラルーシ生まれ。現ウクライナで統計局長をつとめ、1922年アメリカに移住)でした。


先進国はいつもお決まりの顔ぶれ。なのに、戦争で焼け野原になっても経済大国の仲間入りをした日本。逆に、裕福な国の1つだったのに衰退したアルゼンチン。景気の循環を研究したクズネッツにとって、この2国の例外は興味深かったのでしょう。


2021年の名目GDPは、日本が4兆9408億ドルで世界3位、アルゼンチンは4872億ドルで27位。


クズネッツについては後ほど触れるとして、先に話を進めます。


今でこそ「10年ごとにデフォルト」と揶揄されるアルゼンチンですが、かつては豊かな国で、名作アニメ『母をたずねて三千里』(監督=高畑勲、画面構成=宮崎駿/1976年)は、1882年にアルゼンチンへ出稼ぎに行ったきり音信不通となった母を探しに、マルコ少年がイタリアからアルゼンチンまで旅する姿を描くお話でした。


アルゼンチンは、1816年に独立宣言後しばらく内戦が続き、混乱が収まったのは1860年代前半。1880年代になると、将来有望な投資先として欧米から資本が流入し、アルゼンチン・ドリームを夢見て大勢の移民が渡り、鉄道・港湾などのインフラも整備されていきます。


広大な土地を活かし、最初は羊毛を、続いてトウモロコシ・牛肉・羊肉などを輸出して発展します。いわゆる中間層が増えるにつれ、政治の民主化も進みました。第1次世界大戦(1914〜1918)に巻き込まれることもなく、むしろ荒廃した欧州に食料を輸出して外貨を稼ぎます。


1930年、第1回サッカーW杯がウルグアイで開催されました。参加国は13カ国。アルゼンチンは決勝でウルグアイに敗れ準優勝。


アルゼンチンに暗雲が漂い始めたのはこの頃です。


世界大恐慌が起こると、いわゆる「持てる国」、イギリスやフランスなど植民地を持つ国は高い関税で他国を締め出すブロック経済圏をつくり、保護貿易で未曾有の不況を脱出しようともがきます。


アルゼンチンはイギリスのブロック経済圏に入り、従属するような形で不況脱出をはかりましたが、政治・経済ともに不安定となり、以後、軍事クーデターが頻発するようになります。


そんな世界恐慌の真っ只中、第32代アメリカ大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、国全体の経済指標(それまで存在しなかった!)をつくる任務をある男に命じました。


男のチームはアメリカの産業を農業、鉱業、製造業……と部門ごとに分け、全米を駆け回り、農場主や工場長に何をどれだけ生産し、生産するために何をどれだけ購入したかを聞き取り調査し、膨大なデータを集め、綿密に計算しました。


この任務を遂行した男が、サイモン・クズネッツです。


ウォール街の株が大暴落して以後、いったいどれくらい経済が悪化したのか。誰も正確にわからなかったものが、1934年に議会に提出された彼のレポートにより、明らかになりました。アメリカの経済規模は3年間で半減していたのです。


この数字を根拠に、ルーズベルトは巨大ダムの建設や植林、道路建設などの公共事業で仕事を生み出し、失業者に仕事=お金を与える、いわゆるニューディール政策を進めました。


いわば、クズネッツは現在でも国の経済規模を測る指標として用いられるGDP(国内総生産)の生みの親です。


ただ面積や重量を測定するのと違い、経済統計は人為的に作られるものですから、そこには人の思惑が入り込みます。データとして何を測定して、何を除外すべきなのか。


論争が起こったのは、軍事費の扱いについてです。


クズネッツは、たとえ軍事費が経済の一部を潤したとしても、民間が利用できる財は減少するので、経済は縮小したことになる。カウントするのであれば、プラスではなくマイナスとして計上すべきだ、という意見でした。


しかし、それは第2次世界大戦への参戦やむなしと動いていた合衆国政府にとって都合の悪いものでした。


そこで、軍事費の扱いを解決するために生まれたともいえるのが「GNP」(国民総生産。GDPの前に使用された指標)という考え方です。


《GNP統計は経済における政府の役割を最終的消費者、すなわち自身が使う目的で財やサービスを購入する者として規定した》(『GDP』)


グズネッツの主張は通らず、現実路線派の主導で1942年に初のGNP統計が発表されました。


この統計は《政府支出を含めた支出のタイプがいくつかに分かれており、戦争のための生産力を分析しやすい形になっている》(『GDP』)


《この瞬間から爆撃機も経済のためになる存在として認められるようになった》(『The Number Bias』)


クズネッツはこのGDPという概念をあまり評価しませんでした。


そもそも経済成長とは何なのか、いや、何のために計測するのか。クズネッツにとって国の経済を計測する=国の豊かさを計測することだったのです。


クズネッツは軍事力以外でも、膨大な広告費、金融や投機に関する出費の大半は、人々の役に立つサービスではない。地下鉄や高価な住宅なども、都市生活を成立させるための必要悪としての出費でしかないと考えました。


何をカウントするかは、今でも議論になります。


欧州でもGDPはEU加盟の可否を決める重要な指標ですし、加盟各国の負担金もGDPの規模に応じて決められています。


2014年、負担金の不公平をなくすためにGDPの計算方法が統一されました。その際、オランダなどで合法な「売春」や「麻薬」の一部をGDPにカウントすることが決まり、これらを違法としているイギリスやイタリアでは大騒ぎとなりました。


実際、GDPの数字を上げるものが、国民にとって良いものとは限りません。


大気や海川を汚染する産業でもGDPに貢献しますし、汚染を除去すれば、その費用もまたカウントされます。移民の大量受け入れでコミュニティがギクシャクしても、人口が増えればGDPの数値は上がりますし、犯罪が増加すれば、防犯カメラやセキュリティ会社、国によっては銃の売上が増え、GDPに貢献することになります。


GDPとはそういうものです。


《しかし、第2次世界大戦の終わりから現在にいたるまで、GDPこそが唯一の豊かさの指標であるかのように扱われている》(The Number Bias)


《クズネッツは、あのゴシック小説の登場人物ヴィクター・フランケンシュタインのように、自らの創造物が独り歩きを始め、勝手な方向に進んでいくのを目撃することになるのだ》(『幻想の経済成長』)


《1985年にクズネッツが死亡する頃には、それはまさしく、彼がそうなってはならないと警告したものになっていた》(『GDP』)


GDPは大事な数字ですが、生産を表す一つの指標でしかありません。近年はGDPを重視しすぎだという批判も高まっています。


しかし、それでも「GDPを増やす=国民の幸せ」という単純な図式で語る論者は少なくありません。


おやおや、アルゼンチンアカエビの話から遠く離れて三千里になってしまいました。話をアルゼンチンに戻して終わりましょう。


世界大恐慌が起きる直前の1928年、アルゼンチン第2の都市ロサリオの裕福な家庭に一人の男の子が生まれました。


成長して医学生となった青年は古いバイクにまたがり、南米大陸放浪の旅に出ます。


金持ちのボンボンの破天荒な貧乏旅行でしたが、行く先々で腐敗した政治、アメリカ資本による過酷な搾取、先住民差別、ハンセン病患者たちの悲惨な生活を目の当たりにして、大きな疑問を抱きます。


青年は虐げられている者のために立ち上がりました。彼の名前は「チェ・ゲバラ」こと、エルネスト・ゲバラ(1928~1967)


おそらくサッカー選手以外で、最も有名なアルゼンチン出身者ではないでしょうか。では、また! アディオス アミーゴ!


*参考文献
『GDP 小さくて大きな数字の歴史』(ダイアン・コイル/みすず書房)
『The Number Bias 数字を見たときにぜひ考えてほしいこと』(サンヌ・ブラウ/サンマーク出版)
『幻想の経済成長』(デイヴィッド・ピリング/早川書房)
『国家はなぜ衰退するのか』(ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン/早川書房)

君たちはどう生きるか。
マンボウと「老後」50年問題。

先日、地元の魚屋さんでマンボウの切り身と腸がパックで売られていたんですよ。魚屋さんに並んでいるのを見たのは初めてだったので驚きました。
マンボウってどこで獲れるのだろう?
漁獲データはなかったのですが、「マンボウなんでも博物館」というサイトが調査結果を載せていました。
限られたデータではあるのですが、主な漁獲地は岩手と宮城なのだとか。南の温かな海にプカプカ浮いているイメージだっただけに、ちょっと意外でした。


マンボウはフグの仲間で、たくさんの卵を持つ魚のひとつと言われています。
「マンボウは一度に3億粒の卵を産む」と耳にしたことはありませんか?
先のサイトの運営者でもある澤井悦郎さんの著書『マンボウのひみつ』によると、これ、誤りなんですって。
まだわかっていないというのが正確で《1000万個以上はありそうだが……正直微妙なところである。現状ではマンボウの抱卵数が明確に何個とはハッキリ言えず、未来の研究に委ねられている状況だ。》
おなじみの魚卵と数を比べてみましょう。
「いくら」(サケ)=3000〜4000粒
「かずのこ」(ニシン)=5〜10万粒。
「たらこ」(スケトウダラ)=20〜50万粒。
「からすみ」(ボラ)=200万粒。
クロマグロ(10歳、200cm以上)で約1500万粒だそうです。
魚は大きな卵を少量産む派と小さな卵をたくさん産む派に分かれますが、前者の代表といえばサケやサメ、後者の代表がマグロやマンボウでしょう。


生物の生存戦略は多様です。
「日本総研」は2023年に生まれた日本の子どもの数は約72万6000人と推計しました。これは統計を開始した1899年以降もっとも少なく、出生率(1人の女性が一生に産む子どもの数の指標)は1.20前後に低下する見通しだとしています。
一般的に先進国の出生率は低く、OECD加盟38ケ国の平均は1.58です。
出生率問題で日本よりも深刻なのがお隣の韓国です。
4.53(1970年)から10年間で2.82(1980年)に急降下すると、98年に1.46と危険水域といわれる1.5を切り、2018年には0.98と1を下回りました。
以後ずっと1を上回ることなく、昨年末に韓国統計庁が発表した23年の出生率の推計でも0.72。25年には0.65まで低下する見込みです。
「このままでは韓国がなくなる」と危機感を抱く人も少なくありません。


逆に先進国で出生率がダントツに高いのがイスラエルの3.0。2位のフランス1.8に大きく差をつけて40年以上も3.0前後で推移しています。
ちなみにイスラエルと戦闘状態にあるハマスが拠点を置くガザ地区もイスラエルと同じくらいの出生率みたいですね。
いずれにせよ、世の中から殺し合いがなくなることを祈るばかりです。


さて、マンボウは長生きする魚とも言われています。寿命もまだよくわかっていないのですが、100年くらいと考えられているようです。
人生100年時代といわれる日本人と同じなんですね。


多くの国が平均寿命を伸ばすなか、縮んでいるのが米国です。
73.61歳(1980年)、75.21歳(1990年)、76.64歳(2000年)、78.54歳(2010年)と伸びていましたが、2010年代に入ると伸びが鈍り、14年=78.84歳、15年=78.69歳、16年=78.54歳とむしろ後退します(世界銀行調べ)
死亡率が上昇した原因は、自殺、ヤク中(薬物の過剰摂取)、アル中(アルコール性肝臓疾患)などによる死亡の増加です。
若い世代の死は高齢者の死に比べ平均寿命にはるかに大きな影響を及ぼします。2015年にノーベル経済学賞を受賞したアンガス・ディートンはこれらを「絶望死」と名付けました。
「絶望死」がクローズアップされたのは2016年秋の大統領選挙。
大方の予想を覆してドナルド・トランプがヒラリー・クリントンを破った理由の一つが、「絶望死」の多い州でトランプが圧倒的な支持を得たからです。


その後の米国の平均寿命はどうかというと……
トランプが大統領に就任すると17年=78.54、18年=78.64、19年=78.79歳とやや持ち直しましたが、2020年はコロナ対応のまずさも重なり76.98歳に激減し、ジョー・バイデン大統領に変わった21年も76.33歳と1990年代半ばの水準にまで落ち込んでいます。
今秋には米国大統領選挙が控えています。誰が大統領になるのかとともに米国の平均寿命の推移にも注目したいところです。


それにしても「寿命」というものは不思議です。
昨年秋の厚生労働省の発表では、長寿国日本に100歳以上は9万人以上もいますが、110歳以上となると約150人と急に絞られます。
世界一長生きした人はフランス人女性のジャンヌ・カルマンさん。122歳まで生き(1997年死亡)、120歳を超えて生きていた唯一の人類とされています(日本の最高齢記録は119歳)。
とすると、平均寿命は伸びてもマックス110歳くらいなのかもしれません。
65歳の定年後、50年も生きるとなると実に長い「老後」です。人生のほぼ半分が余生になるのでしょうか。
1937(昭和12)年、日本の平均寿命が50歳に満たない時代に吉野源三郎は「君たちはどう生きるか」と若者に問いかけましたが、これからは中高年に向けてこそ問うべき問題なのかもしれません。


少しずつ老いていく「老化」は私たちにとっては身近なものですが、自然界では珍しい現象です。
東京大学定量生命科学研究所教授の小林武彦さんは著書でこう記しています。
《野生の生物に老化はそもそもないのです。》《生態系は、基本的に「食べる–––食べられる」の関係で維持されているので、動きが悪くなるとすぐに「食べられて」死んでしまうのです。》(『なぜヒトだけが老いるのか』)
一般的にヒト以外の生物の場合、老化期間は短いかほとんどなく、老化と死がほぼ同時に訪れる=ピンピンコロリが基本だと、小林先生はサケやゾウを例に説明します。
《遡上中には老化していません。老化していたらとても川を遡ることはできません。つまりサケの老化は、産卵後に起こります。ということは、ほんの数日間で急速に老化して死ぬわけです。》《産卵・放精後の生理的な変化として、急激な脳の萎縮が観察されます。これにより、そこから出るホルモンが低下し器官の制御が壊れ、「突然死」しているようです。》
《ゾウは基本的には老化症状を示さず、死ぬときには心筋梗塞などの循環器系の不具合が原因で、ピンピンコロリというわけです。結果的に、老いたゾウは存在しないのです。》
しかしヒトには長い老後が存在します。
《進化の過程で、長い老化した期間がある生物は選択されてこなかった、生き残ってこられなかったにもかかわらず、ヒトだけが例外的な存在になったのです。》


失敬な! ワシはまだ老いぼれとらん!
何歳から老後なのか。人によって考え方はさまざまですが、平均すると男女ともに67歳くらいからを老後と考えているようです。(ライフネット生命「老後を変える全国47都道府県大調査2019年版」)
小林先生は、生物学的にはヒトの生殖可能な閉経までの約50年(未成熟期間も含む)が「老化していない期間」で、その後、亡くなるまでの約30年を「老後」と捉えています。
《クジラの仲間であるシャチとゴンドウクジラはヒトほどではないのですが、老後があります。しかしそれ以外の生物は、なんとほとんど「老後」はありません。死ぬまで子供が産めるのです》
《ヒトと同じ大型霊長類であるゴリラとチンパンジー(中略)も大体ヒトと同じ時期に閉経を迎えますが、子供が産めなくなったらすぐに寿命を迎えて死んでしまい、老後は無いのです。》


なぜヒトにだけ長い老後があるのでしょうか?
有名なのが「おばあさん仮説」です。
チンパンジーの寿命は約35歳(1歳未満で死亡した個体を除く。性別にみるとオス=平均35.7歳,メス=平均33.4歳とオスのほうがやや長生き/京都大学野生動物研究センターHP)ですが、10歳くらいから死ぬまで子供を産み続けることができます。
ただ、子供は乳離れするまで(3〜5年)母ザルにぴったり引っ付いているため、母ザルは1匹しか面倒をみることができません。
子育て中は次をつくらないのでチンパンジーの出産間隔は5〜7年と長く、子供の死亡率も高いため、一生に残せるのは2~3匹なのだとか。
対して、ヒトは毎年子供を産めます。しかし、母親1人でたくさんの乳幼児の世話をするのは無理。
そこで母親の母親(おばあちゃん)が育児に参加できる、つまり子供を産めなくなったあとも死なずに生き続ける遺伝子を持つ種が進化に有利に働いたというものです。


ネアンデルタール人は4万年ほど前にホモ・サピエンスによって滅ぼされました。私達の祖先が生存競争に勝った理由のひとつに集団の大きさがあったといいます。
ネアンデルタール人が100人ほどの集団であったのに対し、ホモ・サピエンスは1000人規模だったそうです。
もしかするとこの差は、ホモ・サピエンスのおばあちゃんたちが娘たちの育児を助け、より多くの子孫を増やした結果なのかもしれません。


*参考文献
『マンボウのひみつ』(澤井悦郎/岩波ジュニア文庫)
『生物はなぜ死ぬのか』(小林武彦/講談社現代新書)
『なぜヒトだけが老いるのか』(小林武彦/講談社現代新書)
『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎/岩波文庫)
『大脱出 健康、お金、格差の起源』(アンガス・ディートン/みすず書房)
『絶望死 労働者階級の命を奪う「病」』(ニコラス・D・クリストフほか/朝日新聞出版)
『運も実力のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル/早川書房)
京都大学野生動物研究センターHP

よしこさんはアジを何匹買ったのか?

受験のシーズンですね。


今回は趣向を少し変えて、算数の問題を解いてみましょう。


ちょっと面白い問題を見つけました。


【問題】
よしこさんは魚屋さんで次の魚をどれも1ぴき以上買い、ちょうど3600円分買いました。
1ぴきあたりの値段はサバ130円、アジ170円、イワシ78円、サンマ104円でした。
さて、よしこさんはアジを何びき買ったことになるでしょうか。


これは約30年前の1992年に実施された「第1回算数オリンピック」で出題された問題です。


問題文で気になるのは、よしこさんの青魚への愛。好きさ加減が半端ではありません。いったいどんな献立だったのでしょう。


そして、30年前とはいえ、一匹の値段にしてはサバがやたら安いですね。


では、解いてみてください。


みなさんが問題を解いている間に雑談でもしますかね。


よしこさんが大好きな青魚は漁獲量の変動が大きいことで知られています。


問題文の青魚4種類の20年前、10年前、最近の漁獲量の推移です。


*農林水産省「海面漁業生産統計調査」(100t単位で四捨五入)
2003年 2013年 2021年
マイワシ 5万2000t 21万5000t 63万4000t
マアジ 24万2000t 15万1000t 9万t
マサバ 32万9000t 37万5000t 44万2000t
サンマ 26万5000t 15万t 2万t

ここでは恣意的にマイワシとしましたが、イワシ類といえばマイワシ、カタクチイワシ、ウルメイワシの3種で、漁獲量的にはマイワシ、カタクチイワシの2種が主役です。


1980年代に約700万トンも獲れたマイワシは90年代に入ると日本近海から忽然と姿を消し、代わりにカタクチイワシやサンマが豊漁になりました。マイワシは高級魚扱いとなり、養殖できないかという話も出たほどです。


ここ数年は姿を消していたマイワシが増え、逆にサンマがまったく獲れなくなってしまいました。


増えたり減ったり、不思議ですよね。


漁獲データは過去100年ほどしかありませんが、それ以前の情報は江戸時代のイワシ問屋の台帳などからおおよその傾向は推測できます。


これによると、マイワシの豊漁期にはカタクチイワシ、マサバ、マアジは不漁で、マイワシが獲れない時期はカタクチイワシ、マサバ、マアジがたくさん獲れるという、一定の周期で海の資源が変動することがわかっています。


この現象は「魚種交替」と呼ばれていて、主な原因は海水温の変化だということです。


10年ほど前(まだマイワシが少なかった頃)、魚類資源の研究者に尋ねたところ「数年のうちにマイワシはより増える」と予測されていたのがまさに的中したのですが、このとき研究者はこうも言いました。


「マイワシが増えると魚種的な多様性は単調になるんですよ」。


どういうことなのでしょう。


マイワシは生まれて2年程度で卵を産むようになります。


マイワシの稚魚は、動物プランクトンだけではなく、植物プランクトンも餌にして成長できる特徴を持っているので、動物プランクトンを餌に成長する他の青魚よりも有利に増えることができるのだそうです。


すると増えたマイワシが動物プランクトンを食べ尽くし、おまけに他の魚の仔魚も餌にしてしまうので、他の青魚は少なくなり、マイワシだけが増えるというわけです。


しかし、本来、寒冷な海を好むはずのマイワシが、海水温が上がっているのにもかかわらず増えているというのは奇妙な話です。


もしかすると水温が低ければ、もっと爆発的に増えたのかもしれません。


ただ、「魚種交替」はあくまで仮説です。


データは主に20世紀以降。江戸時代の文献を含めても約400年しかありません。地球規模で考えれば非常に短いスパンです。


そこで注目されたのが、海底堆積物中のイワシ類の鱗でした。


2017年。愛媛大学の研究チームが衝撃的な発表をしました。


大分県別府湾の海底堆積物中のイワシ類の鱗から、過去2800年の魚の個体数の長期変動を明らかにしたのです。


すると、マイワシとカタクチイワシには数十年ごとの周期変動は度々認められるものの、「魚種交替」を示す時期はわずかしかないことが判明したのです。


むしろ長期の記録からは、どちらも増える時期もあれば、両方減る時期もあるなど、多様なパターンのあることが認められました。


つまり、20世紀に観測された周期的な魚種交替はたまたまだったのかもしれないのです。


20世紀は1970年代にペルー沖のカタクチイワシ資源が崩壊すると日本や南米沖でマイワシが増加し、1990年代にマイワシ資源が崩壊すると今度はカタクチイワシが増加するという世界的な魚種交替が起こっていました。


こうして交替しながらイワシ類は世界に安定供給されていましたが、この研究によると、「私たちが依存している自然環境から得た資源は必ずしも安定的に供給されるものではないということがわかった」(愛媛大学 加(くわえ)研究室 HP)のです。


つまり、数十年間に渡りマイワシもカタクチイワシもいない時代もあるわけです。


もしも、そんな事態が起これば、イワシ類は食料としてだけではなく飼肥料としても重要な位置を占めていますから、世界的混乱が起きるのは必須です。


そうなったら、どうする……こういう問題を解くのは容易ではありません。


それに比べれば、冒頭の算数の問題を解くのは簡単なはず。


さて、いかがです、解けましたか?


サバをx匹、アジをy匹、イワシをz匹、サンマをw匹買ったとすると、130x+170y+78z+104w=3600という方程式は浮かびましたが……。


恥ずかしながらお手上げだったので、塾の講師経験のある友人に助けを求めました。


「問われているのはアジの数だよね。他の魚の数は問題にされていない。なら、注目すべきポイントはアジと他の3種類の魚の値段の違いでしょう」


――170と「130、78、104」の違い?


「逆に130と78と104の共通点ってなんだろう?」


これに気づくと解は自然と導かれるのだそうです。


――だめだ、降参。


答えは130=13×10、78=13×6、104=13×8。


「130、78、104」の共通点はどれも13の倍数ということです。


13の倍数なんて見えづらいですよね。これがすぐに見つけられる人は数のセンスがいい人なんですかね。


一方、170は13の倍数ではありません。170÷13=13…1。13あまり1。


アジを買わずにサバとイワシとサンマの3種類を買ったとすると、それぞれの値段は13の倍数ですから、どんな組み合わせでも合計金額は13で割り切れます。


で、もしもサバ、イワシ、サンマに加えてアジを1匹買ったとすれば、合計金額を13で割ったあまりは1となります。


例えば、すべて1匹ずつ買った場合、サバ130円+イワシ78円+サンマ104円+アジ170円=482円。これを13で割ると37…1。


あまりは1です。


サバ、イワシ、サンマを100匹ずつとアジを1匹でも、合計金額を13で割るとあまりは1です。


もうお分かりになった方も多いと思いますが、サバ、イワシ、サンマを1匹ずつで、アジだけ2匹買ったのなら130+78+104+(170×2)=652。これを13で割ると50…2。


あまりは2です。


このようにアジを1匹購入するごとにあまりも1ずつ増えていく。つまり合計金額を13で割ったあまり=アジの数なのです。


問題の合計金額は3600円ですから……


3600÷13=276…12。


あまりが12ということは、買ったアジは12匹だとわかるのです。


他の魚の数も気になりますが、これは複数の組み合わせが可能(たぶん25の組み合わせ)で、例えばサバ1・イワシ17・サンマ1匹でも、サバ2・イワシ6・サンマ8匹でも、サバ9・イワシ1・サンマ3匹でも、アジ12匹と合わせると3600円になります。


ちなみにアジが25匹でもあまりは12ですが、この場合アジだけで170×25=4250と3600円を上回ってしまいます。


ということで答えは12匹なのです。


*参考資料
算数オリンピック委員会HP
愛媛大学加研究室HP

泥濘(ぬかるみ)の食卓、または
一人の女と文豪二人と第三の男。

お正月にふさわしい魚といえば、やはり鯛でしょうか。


健啖家だった谷崎潤一郎(1886〜1965)の作品にはよく食べ物が登場します。魚介類でいえば鱧、鮎と並んで多いのが鯛でしょう。


《幸子は昔、貞之助と新婚旅行に行った時に、箱根の旅館で食い物の好き嫌いの話が出、君は魚では何が一番好きかと聞かれたので、「鯛やわ」と答えて貞之助に可笑しがられたことがあった。貞之助が笑ったのは、鯛とはあまり月並過ぎるからであったが、しかし彼女の説に依ると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。》(谷崎潤一郎『細雪』)


女好きの男嫌いで文壇の付き合いを好まなかった谷崎ですが、6つ年下の芥川龍之介(1892〜1927)、佐藤春夫(1892〜1964)とは仲よしでした。


(谷崎と佐藤は1935年に創設された「芥川賞」の選考委員を初回からつとめています)


30歳ですでに新進気鋭の作家として名を馳せていた谷崎が芥川、佐藤と知り合ったのは1917年(大正6)の夏。芥川の最初の短篇集『羅生門』の出版記念会の発起人になってもらおうと2人が谷崎に会いに行ったのがはじまりです。


3人は意気投合し、佐藤は谷崎の紹介で翌年「中央公論」に『李太白』を発表します。


これは唐代の詩人・李白が酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ちて溺死したという伝説をもとに、李白が「星」になるというお話です。


2ヶ月以後、谷崎は『魚の李太白』を発表します。チリメン細工の「鯛」が李白だったという童話のようなお話で、佐藤のデビュー祝いに贈ったものでした。


12年後、谷崎は妻の千代を佐藤に贈ります。


これが世間が眉をひそめた、いわゆる「細君譲渡事件」です。


この事件の真相……もう一人の作家が事件に絡んでいたことが明らかになったのは1988年(昭和63)、谷崎の死後23年も秘密にされていたのです。


奇妙なことに真相を伝えた「文學界」の記事はまったく話題になりませんでした。文壇ゴシップが大好きな瀬戸内寂聴さんですら気づかず、

《私は寡聞にしてそんな話を知らなかった。それほどの事が発表されているにかかわらず、これまで、その事実が、だれにも問題にされなかったことが不思議で異様である》(瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに』)


《谷崎ほどの作家になれば、書簡が見つかった、未発表の作品が見つかったといって新聞種になるのに(中略)当時新聞もまったく取り上げていない》(小谷野敦『谷崎潤一郎伝』)


そのため今でも「細君譲渡事件」をシンプルに谷崎→佐藤と思い込んでいる人は少なくありません。


つい最近まで私もそうでした。


……というわけで、谷崎、佐藤、そして第三の男のスキャンダラスな恋愛模様をたどってみましょう。いやあ、ドロ沼ですよ〜。


谷崎潤一郎は生涯で3回の結婚をしています。


最初の結婚は1915年(大正4)、29歳のときでした。


学生時代から出入りしていた3歳年上の料亭の女将・初子にぞっこんだった谷崎は結婚を申し込みますが、「旦那(パトロン)がいるからダメ」と振られ、「うちの妹はどう?」と紹介された千代と結婚します。


千代との間に一女をもうけるも、結婚はうまくいきませんでした。谷崎には家庭的な千代は平凡で退屈だったのです。そして谷崎は千代の妹でまだ15歳のせい子に入れあげ、同棲をはじめます。


せい子をモデルに生まれたのが、ナオミという自由奔放な娘が自分に惚れた中年男を翻弄する小説『痴人の愛』でした。


谷崎家に出入りしていた佐藤春夫は千代に同情します。


同情は恋の始まりといいますが、佐藤も妻・香代子と春夫の弟・秋雄が通じていることを知り、メンタル的にどん底でした。


妻を寝取られた男と夫のDVに耐える妻。妻と別れた佐藤は千代と深い仲になります。


1921年(大正10)、谷崎は「せい子と結婚するので、千代と娘をよろしく」と佐藤に約束しますが、せい子に結婚を断られると、「やっぱ、あの話なし!」と約束を反故にします。


激怒した佐藤は谷崎と絶交(小田原事件)。千代への思いを綴った作品を続々と発表します。有名なのが「さんま苦いか 塩つぱいか」の『秋刀魚の歌』です。


千代への手紙は、こんな感じです。


《私はよく自分で死ぬことを考へる。――ほんとうにあなたなしに私はどうして生きて行けばいいのだろう》《あなたがそばに居てくれない一生は、僕にとつて結局それだけで破滅なのだ》(小谷野敦『谷崎潤一郎伝』)


そんな佐藤ですが1924年(大正13)に芸者・タミと再婚。しかし2年後にタミの従妹・きよ子と恋愛事件を起こします。


「あなたのしていることは谷崎と同じじゃないの」とタミに説教された佐藤は「ようやく谷崎の気持ちが分かった」と谷崎と和解します。


……ツッコミどころ満載ですが、先に進めましょう。


小田原事件から10年後。


1930年(昭和5)、「千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り」という谷崎・佐藤・千代3人連名の挨拶状が配られ、各新聞は「細君譲渡事件」としてセンセーショナルに報じました。


その経緯は長い間、夫婦間の冷え切っていた谷崎が佐藤に持ちかけたとされ、谷崎の代表作の一つ『蓼喰ふ虫』に登場する夫公認の妻の愛人のモデルも佐藤春夫だと考えられてきました。


事件から60年後、「細君譲渡事件」の前に谷崎が別の男と千代を結婚させようと画策していたことが谷崎の末弟により明らかにされました。


相手は千代より8つ年下の和田六郎、のちの推理小説家・大坪砂男(1904〜1965)。『蓼喰ふ虫』のモデルは佐藤ではなく大坪だったのです。


大坪砂男の名前は今ではあまり耳にしませんが、江戸川乱歩(1894〜1965)が命名した「探偵小説界の戦後派五人男」の一人です(他の4人は『ゴジラ』の香山滋、『事件記者』の島田一男、『白昼の死角』の高木彬光、『甲賀忍法帖』の山田風太郎)。


1924年(大正13)頃から谷崎家に出入りするようになった大坪は裕福な家庭に育ったイケメンで頭の回転もよく話上手な好青年。2年後、千代と大坪は急速に接近します。


谷崎は2人の仲を黙認、むしろそそのかすように振る舞いました。


しかし突然、大坪は姿を消します。


理由は佐藤が大反対して結婚を阻止したとも、大坪がいまだに昔の恋人・佐藤を頼る千代に嫌気が差したともいわれています。


谷崎は千代と別れて女中の絹枝と結婚するつもりでしたが、佐藤と千代の猛烈な反対にあって話が流れると、翌年20歳年下の女性記者・丁未子(とみこ)と再婚します(2年で破局)。


谷崎はこのとき3番目の妻となる子持ちの人妻・松子(『細雪』の次女・幸子のモデル)とも密かに関係を持っていたといいます。


……すでに胸焼けものですが、修羅場は続きます。


消息を絶った大坪は親の遺産で放蕩三昧の日々を送り、その後、薬学の知識を活かし警視庁刑事部鑑識課に勤務するものの上司の妻・徳子と恋仲になったことが原因で退職。


株屋や画商をしながら遺産を使い果たした大坪は、やはり「作家になりたい」と徳子と子どもとともに長野県の佐久に疎開している佐藤春夫のもとを訪ねます。そこには千代もいるのにです。


小田原事件から24年ですから佐藤と千代も初老。


しかし50歳を過ぎても佐藤は枯れておらず、近所に疎開してきた人妻に熱をあげ、毎日のようにラブレターを出していました。


おまけに若くて美しい大坪の妻・徳子を「のりさん、のりさん」と佐藤が可愛がるので、癪に障った千代は「才能のある大坪を一人前の作家にできないのはアナタが悪い」と徳子に厳しく当たります。


ちなみに大坪は大坪で、東京で別な女性との間に子どもをつくっていますから、なんかもうメチャクチャです。


佐藤の大坪の小説への評価は「筋は立てられるが、描写が出来ない」と厳しいものでしたが大坪はようやく佐藤のめがねにかなった作品を書き上げます。


1948年(昭和23年)、推理小説雑誌「宝石」に『天狗』を発表。


江戸川乱歩から高く評価された大坪ですが、寡作でしかも短編しか書けなかったために暮らしは窮乏し、やがて前借りしては踏み倒し、日本探偵作家クラブのカネを使い込むなどして1957年(昭和32)に表舞台から姿を消しました。


その後、大坪はゴーストライターとして、同じ佐藤春夫門下の柴田錬三郎に『眠り狂四郎』シリーズなどのプロットを提供しては小銭を稼いでいたといいます。


千代という一人の女性と交錯した2人の文豪と推理小説の鬼才。3人の作家は不思議なことにほぼ同時期にこの世を去っています。


1964年5月、佐藤春夫は自宅でラジオ番組収録中に心筋梗塞で倒れ逝去。享年72。同年10月の東京五輪開会式では彼の作詞した「オリンピック東京大賛歌」が歌われました。


1965年1月、大坪砂男は肝硬変に胃がんを併発し、ひっそりと世を去りました。享年60。痛み止めの注射なども含め一切の治療を拒否し、野武士のような最期だったといいます。


1965年7月、谷崎潤一郎は腎不全に心不全を併発して死去。享年79。


谷崎の死は3番目の妻・松子の連れ子(戸籍上は松子の妹・重子の養子)の嫁、つまり義理の娘かつ姪である千萬子をモデルに、フェチズムとマゾヒズムと老人の性欲を描いた『瘋癲老人日記』を発表した3年後のことでした。


『瘋癲老人日記』の老人=谷崎は食欲旺盛で、ここにも鯛、鱧、鮎が登場します。


《予ハ滝川ドウフノ他ニ晒シ鯨ノ白味噌和エガ欲シクナッテ追加スル。刺身ハ鯛ノ薄ヅクリ二人前、鱧ノ梅肉二人前。鯛ハ婆サント浄吉、梅肉ハ予ト颯子デアル。焼キ物ハ予一人ダケガ鱧ノ附焼、他ノ三人ハ鮎ノ塩焼、吸物ハ四人トモ早松ノ土瓶蒸シ、外ニ茄子ノ鴫焼。

「マダ何カ喰ッテモイヽナ」

「冗談ジャナイ、ソレデ足リナインデスカ」》(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)


戦前は「ブルジョワだ」、戦時中は「時局をわきまえない」、戦後になると「封建的だ」と批判され、ときには発禁処分を受けながらも、コロコロと変わる世間に同調することなく、谷崎はひたすら己の欲望と向き合いました。


《谷崎の生涯はまさしく、私たちにとって根源的な欲望である〈性慾〉との格闘で、それをいかに藝術的に昇華させるかの歴史だったことに気づかされる》(千葉俊二『谷崎潤一郎 性慾と文学』)


《谷崎潤一郎は「食魔」と呼ばれる恐るべき美食家でもあった(中略)見苦しく醜悪なほどに食べ続け、同時にそんな自分を冷徹な目でみつめ続けてきた》(坂本葵『食魔 谷崎潤一郎』)


《人の快楽を是認し、人の悪を是認し、自らの肉欲のなかに潜む怪物を飼いならす決意は、とどのつまり、人間の自由の獲得であった》(嵐山光三郎『文人悪食』)


『昭和ミステリー大全集(上)』には佐藤春夫の『指紋』、谷崎潤一郎の『途上』、大坪砂男の『天狗』と3人の作品が仲よく収められています。


事実は小説よりも奇なり。ミステリー小説よりも3人の恋愛譚のほうがはるかにミステリアス、いやむしろホラーだと思うのは私だけでしょうか。


◎追記
千代は1981年(昭和56)に84歳で大往生。初期の谷崎文学に大きな影響を受けた江戸川乱歩は谷崎の亡くなる2日前に死去している(享年70)。


*参考文献
『つれなかりせばなかなかに』瀬戸内寂聴/中央公論社
『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』小谷野敦/中央公論新社
『谷崎潤一郎 性慾と文学』千葉俊二/集英社新書
『食魔 谷崎潤一郎』坂本葵/新潮新書
『文人悪食』嵐山光三郎/マガジンハウス
『推理文壇戦後史』山村正夫/双葉社
『昭和ミステリー大全集』(上)新潮文庫
『天狗』大坪砂男/国書刊行会

野球とフィレオフィッシュとアメリカンドリーム

2023年、テキサス・レンジャーズが球団創設63年目にして、ついにワールドチャンピオンになりました。12年前にはあと1球という惜しいところで逃してしまいましたからね。


今季からレンジャーズを率いたブルース・ボウチー監督(1955〜)はこれでワールドチャンピオン4回(史上6人目)、両リーグで世界一(史上3人目)を達成。


しかも、最初に監督をつとめたサンディエゴ・パドレスでもナ・リーグを制覇(1998年)していますから、異なる3球団をリーグ優勝に導いたわけで、これは長いメジャーの歴史のなかでも唯一の記録です。


というわけで、今月はスケトウダラのお話です。


ボウチー監督はプレーヤーとしても1984年、パドレス時代にワールドシリーズを経験しています。


野球にはチームに貢献した選手の栄誉を讃える永久欠番というものがありますが、パドレスの欠番扱いに「レイ・クロック」の名前があるのをご存じでしょうか。


レイ・アルバート・クロック(1902〜1984)


ソフトバンクの孫正義さんも、ユニクロの柳井正さんも尊敬する辣腕経営者……みなさんご存じ、ハンバーガー・チェーン「マクドナルド」の創業者です。


シカゴに生まれたレイは高校を中退すると、クラブでのピアノ弾き、不動産業、紙コップ、家具、ミキサーのセールスマン……とさまざまな職については猛烈に働きました。


《クロックは自分を信じ、自分だけのアメリカンドリームがあると信じていた。もし夢に向かって懸命に努力を続ければ、ある日、ぱっと稲妻が走り、金と成功を掴むことが必ずできるのだと。》(『ザ・フィフティーズ』)


カリフォルニアでマクドナルド兄弟が営む画期的なアイデアのハンバーガー店の存在を知ると「このシステムは全米展開、いや世界に通用する」とフランチャイズの代理人となって働き、やがて巨額の借金をして買収したのはレイが50歳のときのことですから遅咲きの苦労人です。


2017年に公開された映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(マイケル・キートン主演)では、マクドナルド兄弟=純朴、レイ=金の亡者みたいに描かれていましたが、話はそう単純ではありません。


ただ、将来のビジョンの違いは決定的でした。


《「私は金を崇拝したこともないし、金のために働いたこともない。ただ自尊心と達成感のために働いてきた。金は厄介な代物だ。手に入れるより、追いかけている方がずっと面白い。 面白いのは、ゲームそのものだ」》(『ザ・フィフティーズ』)


《「仕事ばかりし 遊ばなければ人間駄目になる」という格言があるが、私はこれには同意しない。なぜなら、私にとっては、仕事が遊びそのものだったからだ。》(『成功はゴミ箱の中に』)


大谷翔平選手は運を掴むために落ちているゴミを拾うといいますが、レイも店の敷地に落ちているゴミがあれば率先して拾い、従業員にも清潔、丁寧な接客、品質管理、スピードを徹底的に求めました。


仕事以外には何の興味もないレイでしたが、野球だけは例外で、チームのオーナーになるのは昔からの夢でした。


(野球好きだったレイは、1932年のワールドシリーズ「ヤンキース対カブス」戦のチケットを買うために朝の2時から球場に並び、その試合でベーブ・ルースの予告ホームランを目撃しています)


大成功を収めたレイは、球団創設から6年連続で最下位に低迷しているサンディエゴ・パドレスがワシントンD.C.へ移転するという話を聞きつけ、球団買収に動きました。


こうして1974年、72歳のときに念願のメジャーリーグのチームオーナーとなったのです。


サンディエゴ市民も町に球団を残してくれたレイを大歓迎しました。


観客動員数をみると、1969〜73年の5年間の平均が59万4000人なのに、レイが球団を買収した74年には107万人と100万人を突破し、チームは相変わらず最下位争いなのにもかかわらず5年目には160万人を達成しています。


さすが、凄腕経営者、球団運営もうまかったのですね。


さて、マクドナルドの定番メニューの一つに「フィレオフィッシュ」があります。


アメリカで最もフィレオフィッシュが売れているのはハワイ州で2番がオハイオ州。フィレオフィッシュはこのオハイオ州で誕生しました。


オハイオ州シンシナティでマクドナルドのフランチャイジーとして店をはじめたルー・グルーンは頭を抱えていました。


この地域の住民の87%はカトリック教徒だったのです。


カトリック教徒には毎週金曜日と、四旬節(早春に行われる40日間の悔い改めの期間)は肉を食べるのを控える習慣があります。


つまり、これらの日はハンバーガーを口にしないので、店の売上げが激減するわけです。


このままではまずいぞ。


自身もカトリック教徒だったグルーンが考えたのが、肉の代わりに魚の切り身のフライを挟んだ「フィレオフィッシュ」でした。


しかし、販売するにはマクドナルド本社の許可が必要です。グルーンはシカゴのレイを訪ねプレゼンしましたが、「店が魚臭くなるからダメ」と却下されます。


NOの理由はもうひとつあって、実はレイにも独自の肉抜きサンドのアイデアがあったのです。


それはレイの大好物、スライスしたパイナップルの上にチーズを載せて焼いたものを挟んだ「フラ・バーガー」でした。


粘り強く交渉を続けるグルーンにレイは自信満々にこう申し出ます。


「わかった、ルー。金曜日にきみのフィレオフィッシュと僕のフラ・バーガーの2つをメニューに加えてみよう。で、売れたほうを正式に採用しようじゃないか」


こうしてある金曜日、どちらが売れるかのテスト販売が行われました。


結果は「フィレオフィッシュ」の売り上げ350個、「フラ・バーガー」は6個。


レイは素直に完敗を認めます。


《庶民感覚を持ち続けた実業家、それがレイ・クロックだった。大衆の嗜好を先取りする本能があるのだと誇らしげに語っていたが、たしかに誇るだけのことはあったし、見通しが外れることは稀だった。》(『ザ・フィフティーズ』)


そんな稀な例のひとつがこの「フラ・バーガー」事件でした。


ただ、もとのレシピの原料はオヒョウでしたが、価格が高くなるためスケトウダラに変更となり、さらにもうひと工夫ということでスライスチーズを加えることになりました。


こうして1963年、フィレオフィッシュはマックの定番メニューとして登場したのです。


フィッシュバーガーを提供しているハンバーガー・チェーンは他にもあります。どんな魚を使っているのでしょう。


主なハンバーガー・チェーンのサイトで原材料を見ると、マクドナルド、バーガーキング、ドムドムバーガーは「スケトウダラ」。モスバーガーは「ホキ」。フレッシュネスバーガーは「ホキ」と「シロイトダラ」を使っているようです。


スケトウダラは白身フライやすり身など加工品の原料になるのがメイン。


鮮魚で流通することは少ないので鮮魚店で尾頭付きを見ることも生食するのも稀なのですが、北海道の居酒屋で一度だけ、ルイベにしたものを食べたことがあります。


マダラみたいなものだろうと予想していたのですが、口の中で溶けると、ものすごく甘みがあって驚いた記憶があります。


レイ・クロックの話に戻りましょう。


81歳で死去するまでレイはパドレスのオーナーを務めました。


亡くなったのは1984年1月。


そのシーズン、チームは奇跡を起こします。


1969年の球団創設以来、ほぼ毎年最下位争いをしていた弱小チームのパドレスが大方の予想を覆してまさかまさかの快進撃。球団史上初めてナ・リーグを制覇したのです。


(このときブルース・ボウチーは控えの捕手でした)。


ワールドシリーズではデトロイト・タイガース*に敗れましたが、チームはレイのイニシャル“RAK”を永久欠番と同格の欠番扱いとして、その功績を讃えたのです。


最後にエピソードをもうひとつ。


1918年、16歳のレイは年齢を詐称して第一次世界大戦に陸軍に志願しています。配属された衛生隊で同じシカゴ生まれで一つ年上の男と出会いました。


《私の配属された隊は、訓練のためにコネティカット州に集まり、そこでもう一人、年齢を偽って入隊していた人物に出会った。私たちが休日には街へ繰り出して女の子を追っかけ回している間も、彼は宿舎に残り、絵を描いていたことから、変わり者呼ばわりされていた》(『成功はゴミ箱の中に』)


その変わり者と呼ばれていた男こそ、ウォルト・ディズニー(1901〜1966)でした。


つまりですよ、その後一人は「地球上で一番ハッピーな場所」で、もう一人は「ハッピーセット」で大成功したというわけです。


では、来年もみなさんがハッピーに過ごせることを祈って、よいお年を!


◯追記
タイガースのオーナーはこの年、球団を買収してオーナーとなった孤児院育ちの実業家、宅配ピザ「ドミノ・ピザ」の創業者トーマス・モナハン(1937〜)でした。奇しくも1984年のワールドシリーズはファストフードのオーナーの新旧対決となったのです。


*参考文献
『成功はゴミ箱の中に』レイ・クロック/プレジデント社
『ザ・フィフティーズ』デイヴィッド・ハルバースタム/新潮OH!文庫
『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー/草思社文庫

日本海海戦の影のヒーローは、動物界ナンバーワンの大物。

こんな話を耳にしたことあるのではないでしょうか。


「ある夏の日、一人の男の子が海で磯遊びをしていて転んでケガをした。


膝を擦りむいただけだったが、数週間しても痛みとかゆみが止まらない。


病院へ行くと、医者は急いでメスでふくらんでいる患部を切開した。


するとそこにはびっしりとフジツボが付着していた」


……なんとも、いや〜な話です。


海水と体液のミネラルバランスが似ているというイメージからつい信じてしまいがちですが、塩分濃度は海水が3.5%前後なのに対し体液は0.9%。安心してください。フジツボはヒトの体内では生きられません。


思うに、サンゴ礁でケガをしたときに発症するサンゴ皮膚炎(傷口から毒のある刺胞が入り込み、痛みとかゆみが長引く)とフジツボがごっちゃになって生まれた話なのではないでしょうか。


日本人ならみんな知っているこの都市伝説ですが、「似たような話はイギリスにもあるの?」と日本通のイギリス人女性に聞いてみると……。


「そんな話、聞いたことない」とのことでした。


「フジツボが話題になるとしたら……う〜ん」


彼女は続けました。


「ペニスの長い生き物の代表ということかしら」


今回はそんなフジツボのお話です。


ご存じのようにフジツボはエビ・カニの仲間です。


しかし、フジツボはずっと貝の仲間だと考えられていて、甲殻類であることが明らかになったのは1830年のこと。


案外知られていませんが、この頃、チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)はフジツボの研究にのめり込んでいて、世界中から集めた1万個のフジツボを調べあげ、全4巻計1200ページという大著『フジツボ総説』を書き上げています。


そして「進化論」のヒントもフジツボにあったようなのです。


殻に隠れているためわかりにくいのですが、フジツボは確かに甲殻類らしき形をしています。


歩行する必要がないので脚は羽根扇のような形に変形していて、この脚を殻の上部に開いた隙間から出し入れしてプランクトンを捕まえます。


しなやかに動くのは同じでもイソギンチャクの触手のようなものではなく、たくさんの節と関節からできています。


私たちが食べているエビ・カニの多くは胸部に左右5対、計10本の脚を持つことから「十脚類」と呼ばれますが、フジツボの仲間は植物の蔓のような形の脚をもつことから「蔓脚類」(まんきゃくるい)と呼ばれます。


フジツボの脚を整理すると左右に6対計12本ですが、脚の根元から二股に分かれていて、しかも、それぞれにたくさん毛が生えているので、やたらと脚が多くみえるのです。


フジツボは富士山のような形をしていることから「富士壺」だと思っていたのですが、元々は脚の形が藤の蔓に似ていることからの「藤壺」で、「富士壺」という表記が生まれたのは鎌倉時代以降なのだとか。


甲殻類ですから脱皮もしますし、食べるとカニに似た味がします。


固着して移動せず、殻にこもりっきりの「こもりびと」生活をしているフジツボがどうやって繁殖しているかというと、ペニスをアコーディオンのようにぐ〜んと伸ばして他のフジツボと交わるんですね。


その長さはなんと体長の8倍。


この比率は動物界最大だといいますから、この「こもりびと」、見かけによらぬ大物なのです。


逆にフジツボ同士の距離が一定以上離れてしまえば交尾はできません。フジツボが群れになっているのはこのためです。


「8倍……フジツボのオス、なんかすげぇ」と思いがちですが、フジツボにオス・メスの区別はありません。


フジツボは精巣と卵巣の両方を持つ雌雄同体です。つまり、フジツボ界には男女差別やLGBTのような問題はないのです。


さて、そんなフジツボが、我が国を救ったことがあります。


それが1905年の日露戦争の日本海海戦です。


極東海域の制海権を奪取すべく、喜望峰をぐるりと回り、日本に迫り来るロシアのロジェストヴェンスキー率いるバルチック艦隊。


総合的な国力で圧倒的に劣勢だった日本は、運命を決する海戦の前に艦砲射撃の精度を上げる訓練時間を必要としていました。


当初、バルチック艦隊の到着は3月頃という予測でしたが、実際は2ヶ月も遅れ、この間に東郷平八郎率いる連合艦隊は何度も訓練を繰り返し、練度を高めたのです。


バルチック艦隊が大幅に遅れた原因のひとつが、半年以上かけて、地球の半周よりも長い距離を航海してきた艦底に張り付いたフジツボでした。


フジツボや海藻などが船底に付着すると航走力は著しく劣化しますし、燃料である石炭の消費量も増加します。


船底の清掃をしたくても、アフリカ、インド、アジアなどにある港の大半を統治していたのはイギリスでした。


当時は日英同盟が結ばれていましたから、ロシア艦隊は設備の整った港に寄ることができず、フジツボの十分な除去も良質な石炭の補給もできなかったのです。


《われわれの第二艦隊(バルチック艦隊)は各艦に貝ガラや海草をびっしりくっつけて極東へおもむこうとしている。日本人は掃除も修理もゆきとどいた艦艇をもってわれわれをむかえるであろう……》(『坂の上の雲』*海草は原文ママ)


《事実、東郷は旅順口の長期にわたる封鎖作戦中、艦底がよごれてゆくことを気にしつづけていた。バルチック艦隊の東航までにまずやっておきたいことは各艦艇の掃除であった。それをやるだけのゆとりを欲した。そのために旅順が一日でも早く陥ちることをのぞみ続けていたのである。旅順の陥落は東郷の艦隊に、修理と掃除の時間を獲得させた。》(『坂の上の雲』)


《日本の連合艦隊は、事前にフジツボやカキを取り除き、船底塗料を塗り直して最高速度がでるようにメンテナンスも完璧だった。戦闘時の速度にして約三・七キロも差があったとされている》(『フジツボ 魅惑の足まねき』)


日本海海戦で連合艦隊を勝利に導いた影の主役はフジツボだったともいえるのです。


それにしても、船にとって厄介なフジツボですが、なぜ水中でぴたりと付着できるのか。考えてみれば、かなり不思議なことです。


私達が普段使っている接着剤は水中では使えません。ところがフジツボは水中の船底や岩だけでなく、漁網、ガラス、クジラ、ウミガメ……と、どんなタイプの表面にでも付着することができます。


しかも、バクテリアなどに分解されることもなく、酸やアルカリにも強く、高温にも耐えられるなど極めて頑丈な性質。


数年前、このフジツボの性質を応用した接着剤を使って患部を止血する方法をアメリカのマサチューセッツ工科大学の研究チームが開発したことが話題になりました。


ラットの心臓に傷をつけ、フジツボにヒントを得てつくった接着剤と外科医が使用する止血用ペースト剤と凝血パッチ剤の3つで傷口をふさぐ比較実験をした結果、最も接着強度があったのがフジツボ接着剤で、脈打つ心臓の傷口をふさぎ、数秒のうちに出血を止めたのです。


実用化されるのはまだ時間がかかるようですが、こうなると、冒頭にあげたフジツボが体内で増殖するという都市伝説も、フジツボはヒトの体内でなにかの役に立つ……という予言のようにもとれますから面白いですね。


*参考資料
『フジツボ 魅惑の足まねき』倉谷うらら/岩波書店
『坂の上の雲』司馬遼太郎/文春文庫
『WIRED』2021.10.12

戦国時代と東西冷戦とナマズ。

関東大震災から100年の今年。地震といえばやはり……ということで今日はナマズのお話です。


今シーズン、ロスアンゼルス・エンジェルスのホームラン・セレモニーが日本の兜というのには驚きましたね。


あの兜は平安・鎌倉時代のスタイルです。


戦国〜安土・桃山時代になると、武将たちの自意識の高まりを表すかのように兜のデザインは個性化、巨大化していきました。


織田信長の配下だった蒲生氏郷(がもう・うじさと)前田利長は、「ナマズ」をモチーフにした「銀鯰尾形兜」(ぎんなまずおなりかぶと)という天に向かってニョキッと長く伸びた形の兜を着用しました。


現在、滋賀県と富山県にある2人の銅像もこの兜姿です。


富山市郷土博物館に所蔵されている「銀鯰尾形兜」の現物は高さが127.5cmもあります。


もしもこの兜がホームランセレモニーに使われたとしたら、米国での反応はかなり微妙なものになったのではないでしょうか。


なんか形が『コーンヘッズ』みたいで妙ですし、第一大きくて邪魔です。そもそも「なんでナマズなの?」と問われるでしょう。


昔から日本ではナマズは大地を揺るがすパワフルな動物と考えられ、武将にとっては敵を蹴散らす縁起のよいものとされていました。


蒲生氏郷は大将であるにもかかわらず、一際目立つこの兜をかぶって馬に乗り、最前線で戦いました。無謀な戦い方ですが、家臣たちは巨大兜を目印に「殿に続け〜っ!」と勇気凛々、蒲生隊は最強軍団だったといいます。


氏郷は戦さが無双だっただけではありません。


城造りもうまく、厳しい反面、気前よく恩賞を与えたことから家臣の人望も厚く、内政面でも楽市楽座を奨励するなど、まちづくりの手腕も抜群でした。


しかも、能や和歌もたしなみ、なかでも茶道は「利休七哲」のひとりに数えられるほどの教養人で、戦国武将にしては珍しく側室を置くこともありませんでした。


そんな氏郷を6歳年下の利長は兄のように慕ったといいます。


氏郷と利長はともに信長の娘を娶っていますから、信長は2人を高く買っていたのでしょう。


本能寺の変で信長がこの世を去り、豊臣秀吉が権力を握ると、氏郷は秀吉に従う道を選択します。


北条氏を滅ぼし、続く奥州仕置で東国を制圧した秀吉は、獅子奮迅の働きをみせた氏郷に伊勢・松坂から陸奥・会津への国替えを命じ、伊達政宗・最上義光ら東北の曲者と関東のたぬき親父・徳川家康の監視・牽制にあたらせます。


氏郷に与えられた領地は92万石。これは徳川家康、毛利輝元に次ぐ3番目の石高でした。


一方の利長も秀吉と対立した柴田勝家に味方するなど紆余曲折はありましたが、家康が関ヶ原の戦いで覇権を握ると、加賀・越中・能登の3ヶ国にまたがる120万石を与えられ、日本最大の大名となります。


奇しくもナマズの兜を被った2人は稀にみる大出世をしたのです……なんてことを米国人に説明するのは面倒臭いですもんね。


さて、日本でナマズを食べる地域は限られていますが、世界的には広く食されている魚です。


2000年くらいまで世界のナマズの生産量の半分を占めていた国がどこかというと、意外かもしれませんが米国です。


米国でのナマズ養殖は1960年代初頭、ミシシッピー川中下流地域のアーカンソー、カンザス、オクラホマ3州あたりで始まりました。


ナマズは南部の貧困層が食べるものというイメージでしたから、当初、ナマズの養殖が成功すると考えた人は少なかったようです。


《ところが、大方の予想とは違って、養殖アメリカナマズの出荷量は1964年の2690トンから始まって、70年代後半にその10倍、80年代後半に50倍、90年代後半には100倍と、倍々ゲームで急伸していった。消費地もミシシッピー流域から、東海岸や西海岸の大都市へと広がる》(『ナマズの博覧誌』)


ミシシッピー川の豊富な水量で育てられたナマズには生臭さがなく、しかも出荷されるのはほとんどが切り身ですから、本来の姿を知らぬまま「ま、白身だし、タラみたいなものなんじゃね?」というアバウトな感じで広まったといいます。


米国人1人あたりの消費量の多い水産物トップ10(2013年)をみると……
1位 Shrimp(エビ)
2位 Salmon(サケ)
3位 Tuna can(ツナ缶)
4位 Terapia(ティラピア)
5位 Pollock(スケトウダラ)
6位 Pangasius(バサ、チャー)
7位 Cod(タラ)
8位 Catfish(ナマズ)
9位 Crab(カニ)
10位 Clam(ハマグリ)


なんだナマズは8位じゃないか……と思われるでしょうが、実は6位の「Pangasius(パンガシウス)」もメコン川、チャオプラヤ川などに生息するナマズの仲間です。


「バサ」は東南アジアで最初に養殖されたナマズ。「バサ」に続いて養殖に成功したのが「チャー」で、これは世界屈指の巨大淡水魚メコンオオナマズと同属の1mを超える大ナマズです。


現在、ナマズを養殖している主要国はベトナム、中国、インドネシアの3国。


輸出はベトナムがトップで、最も輸入しているのが米国。つまりベトナムナマズが米国市場を席巻しているのです。


ベトナムに押されているとはいえ、2021年には14万トンのアメリカナマズが生産されています。


これは米国の養殖魚生産の6〜7割にあたる重量なのだとか。


ニューオリンズあたりに行くとナマズのフライの看板をよく見かけますが、全米でそれほど需要があるとは驚きでした。


日本では7月2日が「ナマズの日」です。調べてみると米国にも「ナマズの日」はあって、6月25日なんですね。


ただ、日本の「ナマズの日」が民間団体の認定なのに対し、米国の「National Catfish Day」は上・下院の共同決議に基づいてロナルド・レーガン大統領が布告した、れっきとした国の公式行事です。


いわば、ナマズは大統領お墨付きの米国の魚。


そうか、レーガンの時代に制定されたのか……。


1987年に「ナマズの日」が制定された2年後、ベルリンの壁が崩壊すると、ハンガリー、チェコ、ルーマニアなど東欧各地で革命が続き、1991年、雪崩を打つようにソビエト連邦が瓦解しました。


ヨーロッパだけではありません。アジアでもフィリピンのマルコス政権がピープルパワー革命で倒れ(1986)、韓国で16年ぶりに民主的な選挙が行われた(1987)のも同じ流れ、ベルリンの壁崩壊の前哨戦のようなものでした。


あのとき世界はまるで巨大ナマズが大暴れしたかのように揺れました。


で、ですよ。


米国の国民的小説といわれる『トム・ソーヤーの冒険』では、トムが親友のハックとナマズ釣りに行こうとすると、判事の娘・ベッキーがついてきて、ひと騒動あるわけですが……。


ベッキーのファミリーネームを覚えていますか?


なんとサッチャーなんです。


いわゆる新自由主義を採用し、世界に激震を与えた西側のリーダーが米国のレーガン大統領と英国のマーガレット・サッチャー首相ですから、ナマズつながりって考えると、ちょっと面白いですよね。


冷戦が終わり、平和な世界が訪れることを多くの人が期待しました。


しかし、残念ながらそうはならず、むしろ、より複雑で危険な状況に世界が陥ってしまったことに気づくのに、そう時間はかかりませんでした。


*参考文献
『ナマズの博覧誌』秋篠宮文仁・緒方喜雄・森誠一編著(誠文堂新光社)
『変り兜』橋本麻里(新潮社)
『レオン氏郷』安部龍太郎(PHP文芸文庫)
『トム・ソーヤーの冒険 』マーク・トウェイン(新潮文庫)
『ウルカヌスの群像―ブッシュ政権とイラク戦争』ジェームズ・マン(共同通信社)

メヒカリは引っ越し大名のお供をしたか?

全国漁業協同組合連合会(全漁連)のホームページに「PRIDE FISH」というコーナーがあります。


これは「地域ごと、春夏秋冬ごとに、魚を知り尽くした漁師が選ぶ“今一番食べてほしい魚”をぜひ味わってみてください」とあるように、全国のご当地自慢の魚を紹介するページです。


ぼんやり眺めていたら、ほーっと思うことがあったので、今日はメヒカリのお話をしたいと思います。


メヒカリは水深150〜400mくらいに生息する体長10〜15cmの深海魚で、文字通り大きな目が緑色にキラキラ輝いて見えることから「メヒカリ」と呼ばれるようになったようです。


標準和名は「アオメエソ」ですが、アオメエソというと釣り餌に使う「アオイソメ」を連想してしまうのは私だけですかね。


さて、産地でしか食べられていなかったメヒカリが全国的に知られるようになったのは1990年代、愛知県蒲郡の沖合底びき網漁師が大手居酒屋チェーンにプレゼンして採用され、メヒカリの唐揚げが定番メニューになったことがきっかけだといわれています。


サラリとした脂がたっぷりのトロける白身の美味しい魚ですが、このメヒカリ、福島県と宮崎県の「PRIDE FISH」になっているんですね。


福島県ではいわき市が2001年に市の魚に制定していますし、宮崎では延岡市が水揚げ量の筆頭です。つまりメヒカリはいわき市と延岡市の「PRIDE FISH」だともいえます。


いわき市と延岡市といえば、こんな縁があります。


江戸時代に260あまり行われたお国替えのなかで、最も長距離の移動となったのが、1747年におこなわれた陸奥国の磐城平領(現在の福島県いわき市平)から日向国の延岡領(現在の宮崎県延岡市)への転封なのです。


転封または国替えとは、簡単にいえば大名の引っ越しです。


大名の引っ越しといえば、『引っ越し大名!』(2019年/監督:犬童一心)のタイトルで映画化もされた土橋章宏の小説『引っ越し大名三千里』のモデル、生涯に7度も国替えさせられた松平直矩(なおのり・1642〜1695)が有名ですね。


しかし、1回の移動距離でいえば磐城平藩6代藩主・内藤正樹(1703〜1766)が命じられた延岡への転封が最も長く、その距離は約1500km。


内藤正樹………そんな大名、知らないという人も多いと思いますが、やはり土橋章宏原作で映画化された『超高速!参勤交代』(2014年/監督:本木克英)にちょこっとだけ顔を出しています。


実は『超高速!参勤交代』の主人公・内藤政醇(まさあつ/演:佐々木蔵之介)が治めていた湯長谷藩は磐城平藩の支藩にあたるのです。


映画のラスト近く、大名行列を演じるはずのアルバイトに逃げられ、窮地に立たされた主人公たちの前に通りかかり「飢饉のときに援助してもらった礼である」と自分の行列を貸した大名こそ本藩の藩主・内藤正樹(演:甲本雅裕)です。


『超高速!参勤交代』の舞台設定は1735年ですから、その12年後に史上最長距離の転封を命じられるなんて、内藤正樹は夢にも思ってもいなかったことでしょう。


江戸時代といえば、財政的な負担となる国替え、参勤交代、土木工事などを申し付けることで、幕府は大名を統制していた……と学校で教わったと思います。


しかし、転封が盛んに行われたのは3代将軍家光(1604〜1651)の時代までで、幕府の力が盤石になるとともに、国替えで大名の力を弱める必要はなくなっていました。


《その結果、姫路のような要衝の地は別として、大名の所領は固定する傾向が顕著となる。転封の対象も親藩・譜代大名、それも数万石から多くても十万石ほどに限られていく。石高が多いほど、社会に与える影響も大きいからだ。外様大名に至っては、事実上、国替えの対象外となる》(『お殿様の人事異動』)


譜代大名の国替えの理由も、役職就任に伴うものが大半でした。


というのも、老中など幕府の要職に任命されるのは譜代大名に限られていましたから、西国など遠国に所領がある譜代大名が任命された場合、関東や中部地方に転封となるという慣例があったのです。


磐城平藩内藤家の国替えも、延岡藩牧野家の藩主・牧野貞通が京都所司代という要職についたことで常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)に国替えとなり、笠間藩の井上家(藩主・井上正経)は磐城平へ、磐城平藩の内藤家は日向国延岡へ……という玉突きのような三方領知替えによるものでした。


ま、これには内藤家の百姓一揆への対応のまずさがペナルティとして課せられた部分もあるようですが……。


いずれにせよ国替えに際しては、領地を引き継ぐための基本台帳などの書類の作成やら城の受け渡しの作法やら、細かい決まりがたくさんあります。しかし、内藤家が磐城平を所領としたのは1622年と125年も前のこと。


誰も転封の経験がありませんから、藩はてんやわんやの大騒ぎとなりました。


しかも、はるか遠方への国替えですから莫大な経費がかかります。


このときの引っ越し費用は約2万両、およそ16億円。これは1回の参勤交代にかかる費用の10倍以上だったといいます。


小藩にそんな蓄えがあるはずもなく、内藤家では、藩の年貢米を扱っていた蔵元などから合わせて1万7000両と、引っ越し費用のほとんどを御用金として拠出させています。


費用で最もかかったのは藩の荷物の輸送料と思いきや、大半を占めていたのは藩士(約500人)への引っ越し手当でした。


藩士本人の旅費は支給されたとはいえ、家族のぶんや、家財道具の輸送費用は自分持ちでしたから、藩から支給される手当だけではとても足りず、家財道具を売り払って引っ越し費用に充てざるを得なかったようです。


ですから、延岡への引っ越しを渋り、江戸藩邸勤務を願い出る藩士が多かったのだとか。


家老の父(内藤全稀)ですら、率先して延岡に引っ越さなければならない立場であるにもかかわらず「オラは船さ乗るど船酔いして死んじまうべ」と江戸藩邸詰を願い出ています。


さすがに藩当局は、それでは藩士への示しがつかないと却下しました。


《このたびの延岡への引っ越しは戦場に向かうことと同然と心得よ。討死にすれば武士の本望ではないかと叱責し、家老の父の申し立てを退けた》(『お殿様の人事異動』)


太平の世って感じですね。


大人数での移動は宿場が混乱すると禁じられたので、藩士は1ヶ月ほどかけて、三々五々宮崎に向かっています。


陸ルートは検問の厳しい東海道ではなく中山道。長い道中、藩士が揉め事を起こさないために、内藤家では喧嘩、口論、博打、遊女遊びなどを厳禁としました。


幕府に国替えを命じられてから、城や所領の受け渡しが完了するまで約4カ月半。内藤家はなんとか無事に引っ越しを終えます。


さて、そんな縁もあって、転封の250年後の1997(平成九)年、いわき市と延岡市は兄弟都市となりました。


兄弟都市が、ともにメヒカリを「PRIDE FISH」としたのは偶然でしょうが、まるでメヒカリが磐城平から内藤公のお供をして延岡にやってきたようにもみえて面白いですね。


メヒカリは本州全域に広く分布しています。厳密には数種類いて、千葉を境に北側ではマルアオメエソ、南側ではアオメエソ、トモメヒカリが多く漁獲されるそうです。


流通上区別することはありませんが、種類が違うためでしょうか、旬は異なっていて、「PRIDE FISH」では福島では冬、宮崎では夏がメヒカリの美味しい時期となっています。


深海に生息するメヒカリは漁獲しても底びき網の中でほとんどが死んでしまうため、生きたものを手に入れることが難しいこともあり、その生態はよくわかっていません。


なんとか生きたものを入手しても、これまで飼育されたメヒカリはいずれも性成熟する前の若魚ばかりで、福島県の水族館「アクアマリンふくしま」が卵を抱いた成魚を確認できたのは2022年8月とちょうど1年前のことです。


姿がイワシに似ているので群れを成して回遊するイメージですが、水中では単独行動で、海底の砂地に胸鰭を広げて踏ん張り、頭を水流がくる方に向けてじっとエサを待ち構えている姿も確認されました。


すっかりポピュラーとなったメヒカリですが、まだまだ謎に包まれた魚なのです。


*参考文献
『お殿様の人事異動』安藤優一郎(日本経済新聞社)
『「改易・転封」の不思議と謎』山本博文(実業之日本社)
『引っ越し大名三千里』土橋章宏(角川春樹事務所)

映画『怪物』とアジフライに何をかけるか問題。

カツとフライの違いはどこにあるか、ご存じですか?


ともに具材に小麦粉・溶き卵・パン粉をまぶして油で揚げる料理ですが、「カツ」はカツレツ(cutlet)の略語で牛肉・豚肉・鶏肉など肉を食材としたときに用い、「フライ」は具材が魚介類や野菜のときに使うのが基本のようです。


さて、日本三大フライといえば「エビフライ」「カキフライ」そして「アジフライ」でしょうか。いずれも1900(明治33)年ごろ、西洋料理をもとに日本で開発された洋食メニューです。


この三大フライを「おかず、酒の肴、おやつ」で考えた場合、「エビフライ」はやはりおかず、「カキフライ」はおかずor酒の肴ですかね。


一方、「アジフライ」はおかず、酒の肴、おやつのどれにでもなります。いわばコロッケに近い、庶民的なポジション。立ち食い蕎麦のトッピングになるくらいの気取らなさですからね。


その親しみやすさもあってでしょうか、アジフライはドラマなどで重要な小道具となることがあります。


今年の5月、『怪物』(監督=是枝裕和)で第76回カンヌ国際映画祭「脚本賞」を受賞した坂元裕二さんは、かつてTVドラマ『最高の離婚』(2013年・フジテレビ)で主人公(永山瑛太)にこんなセリフをつぶやかせています。


「昨日の晩ごはん、アジフライでした。僕が醤油かけようと思ったら妻がソースかけました。ハハハハ。僕が言いたいこと3つあります。アジフライには醤油。かけるなら自分のだけかければいいよね。えっ、何でそのうえマヨネーズをかけんの? あり得なくないですか?」


坂元さんは『カルテット』(2017年・TBS)でも「アジフライに何をかけるか問題」を扱っています。


――アマチュア弦楽四重奏のユニットを組み軽井沢の別荘で同居する4人……真紀(松たか子)、すずめ(満島ひかり)、家森(高橋一生)、別府(松田龍平)。家森が別れた妻と暮らす息子の光大を誘拐し、5人で食卓を囲む場面。晩ごはんのおかずはアジフライ。


一同
「いただきま〜す」
家森
「光大、取ってあげる、大きいの(アジフライを息子の皿へ)
光大
「ありがと」
(醤油差しがすずめ→真紀→別府→光大と回る)
家森
「光大、ちょっと待って。(全員に)みんな何かけてるの?」
真紀
「お醤油です」
家森
「アジフライにはソースじゃない?」
別府
「あっ、すいません(ソースを取りに立ち上がる)
(光大、醤油をかける)
家森
「光大、何してんの、何してんの! 今、別府兄さんが」
光大
「お醤油でもいい」
家森
「うちは昔からソースだって」
光大
「ママがソースでもお醤油でも食べれるようになったほうがモテるよって」
真紀・すずめ
「偉いね〜。モテますね〜」
家森
(醤油をかけるか逡巡するが)……別府くん、ソースいただける?」
別府
「はい。(冷蔵庫を開けて)家森さん、ウスターですか、中濃ですか?」
家森
「ウスター!」

アジフライに何をかけるかは、人は容易にはわかりあえないことの比喩でもあります。


坂元さんの脚本では醤油が多数派ですが、Jタウン研究所が行った「アジフライに何をかけますか」という調査(2018年・総投票数1247票)では1位 ウスターソース(29.4%)、2位 醤油(23.3%)、3位 中濃ソース(15.8%)、4位 タルタルソース(8.8%)、5位 なにもかけない(5.5%)……でした。


みなさんは何派ですか?


ちなみに慶応義塾大学が開発した味覚センサーAI「レオ」の測定では、アジフライとの最も相性のよい組み合わせはソース、醤油を押さえて「味ぽん」だったそうです。


なんと、味ぽん!


こうなるともう、揚げ物界のバーリトゥード。何でもかかってきなさい的なアジフライの底力を感じますね。


一方、監督の是枝さんの代表作『海街diary』(2015年・脚本=是枝裕和)にもアジフライが登場します。


(綾瀬はるか)、佳乃(長澤まさみ)、千佳(夏帆)の三姉妹と鎌倉で暮らすことになった異母姉妹のすず(広瀬すず)。すずの地元サッカーチームの入団祝いに食堂「海猫食堂」のおばちゃん・二ノ宮さん(風吹じゅん)がおまけしてくれたのが揚げたてのアジフライでした。


姉妹が揃って「海猫食堂」を訪れるシーンで、4人中3人が注文したのもアジフライ定食。


二ノ宮さんが店をたたみホスピスに入ることを決めたとき、二ノ宮さんの友人でカフェ「山猫亭」店主の福田さん(リリー・フランキー)は姉妹に「店はなくなっても、おばちゃんのアジフライはうちで出そうと思いよっちゃ。まさか弟もレシピまでよこせとは言わんやろ」と伝えます。


映画は姉妹の父の葬式に始まり、二ノ宮さんの葬式で終わります。


『海街diary』は四姉妹の物語ですが、主人公は姉妹の暮らす古い木造二階建ての「家」であり、海辺の「街」だともいえます。


母が去っても庭の梅の木は実をつけ、父は死んでも新しい妹ができ、店主が亡くなってもアジフライの味は街に残る。


季節は巡り、人は入れ変わりますが、日々の営みは繰り返され、そのなかで失われるものもあれば受け継がれていくものもある。


《もしも僕の映画に共通したメッセージがあるとするなら、かけがえのない大切なものは非日常の側にあるのではなく、日常の側のささやかなもののなかに存在している、ということ》だと是枝監督は語っています。(『映画を撮りながら考えたこと』)


こうしてみると、映画『怪物』はアジフライに特別な思いをもつ監督と脚本家がタッグを組んだ映画といえるでしょう。


美味しいアジフライを食べられる店のある町って、ささやかだけど確かな幸せがそこにある感じがしませんか。


「誰かにしか手に入らないものは『幸せ』って言わないんだよ。誰にでも手に入るものを『幸せ』っていうんだよ」(『怪物』)


さて、町に1軒あるだけでも嬉しいのに、30軒以上もあるのが「アジフライの聖地」として有名になった長崎県松浦市です。


昔からアジフライを提供する店が松浦に多かったわけではありません。むしろ地元では刺身や塩焼きで食べるのが定番で、大人が好んで食べたのは骨ごと薄く筒切りにした「背切り」。新鮮なアジをわざわざフライにするなんてことはまれでした。


仕掛け人は「アジフライの聖地をめざす」を選挙公約の一つに掲げて2018年2月に就任した友田吉泰市長です。


就任1年目の友田市長に「なぜ松浦をアジフライの聖地にと考えたのですか?」と尋ねたことがあります。


「呼子(よぶこ=佐賀県)のイカ、中津(大分県)の唐揚げのように、松浦を知ってもらい、来ていただくきっかけとなるインパクトのあるものは何かと考えていて、私自身が揚げ物好きで、出張先で食べるアジフライよりも松浦のほうが断然美味しいってことに気がついたんです。


松浦はアジの水揚げ量日本一の町です。いきのいいアジが豊富にあるわけで、これを活かさない手はないと。選挙公約に掲げたときは『え? アジフライ??』ってキョトンとされましたけれどね」(友田市長)


市長は、観光客が食べられるように土日も営業してアジフライを提供してもらえないかと飲食店に協力を要請。食べられる店のマップを作成し、メディアで積極的にPR。学校給食のレギュラーメニューにも取り入れるなどアジフライの聖地計画は着々と進み、2019年4月27日に「アジフライの聖地 松浦」を宣言。


すると年間60万人ほどだった観光客がドーンと93万人越えまで増えたのです。おそるべし、アジフライのパワー。市長、グッドジョブ!


2019年に制定された「松浦アジフライ憲章」にはこう書かれています。


一、私たちは、松浦市で水揚げされたアジ、又は松浦市周辺海域で漁獲されたアジを使用します。

一、私たちは、ノンフローズン又はワンフローズンで提供します。

一、私たちは、できるだけ揚げたてアツアツを提供します。


なかでもアジフライの味を決定的に左右するのが冷凍回数です。


「ノンフローズン」とは一度も凍結せずに作ったアジフライのことで、「ワンフローズン」は水揚げされたアジを捌き、その日のうちに衣づけまでしてから凍結したアジフライのこと。


これらは「ツーフローズン」(鮮魚の段階で一度凍結し、海外の加工場などに送り、そこで解凍し捌いて衣をつけて、再び凍結して日本へ送られたもの)のアジフライと比べると旨みも食感もまるで違い、身は分厚く、ふっくらジューシーです。


アジフライ提供店が増えるつれ、店ごとに個性化が進み、パン粉や揚げ方を工夫したり、オリジナルソースの味を競ったり、アジフライ海苔巻きなどの新メニューが登場したばかりでなく、電車の吊り革にもwithアジフライ。


町まるごとアジフライのテーマパークといった感じで、つい店をハシゴして食べ比べしたくなります。


何をかけるか問題の他にも、開いた三角形のアジフライvs三枚におろしたフィレタイプのアジフライ、どちら派か? 旨みを引き出すために一晩寝かせてから揚げるバージョンvs直前までいけすに生かしておいたのを揚げるバージョン、どちら派か?


たかがアジフライ、されどアジフライ。アツく語れるのがアジフライの深くて面白いところですね。


*参考文献
『映画を撮りながら考えたこと』是枝裕和(ミシマ社)
『是枝裕和対談集 世界といまを考える1〜3』(PHP文庫)
『ユリイカ 特集・坂元裕二』2021年2月号(青土社)
『初恋と不倫』坂元裕二(リトルモア)
『長崎県観光統計データ』(長崎県)

ウナギとハラキリと「堺事件」。

日本通のイギリス人女性と鰻屋さんに行ったときのことです。


「東京の蒲焼きが背開きなのは、ハラキリを連想させるのを嫌ってですよね?」と聞かれました。


いきなり「ハラキリ」というワードが飛び出たのには驚きました。英語ではSEPPUKUよりもHARAKIRIのほうが通じるのだとか。今や日本といえばアニメ、漫画、禅かと思いきや、サムライ、ハラキリのイメージは根強いようです。


ハラキリが欧米に広く知られるようになったのは、王政復古の大号令(1868年1月3日)で新政府が誕生したばかりの混乱期に起きた「堺事件」がきっかけだといわれています。


鰻の蒲焼きが江戸の名物になった18世紀にはすでにハラキリは形骸化していて、実際には切らず、短刀を腹にあてたときに介錯人が首を落とすのが作法でした。それが幕末になると割腹するケースが激増します。


史実とは多少異なるのですが、日本では「堺事件」は概ねこんなふうに伝わっています。


1868(慶応4)年3月8日、堺の町を警備する土佐の守備隊が、強引に上陸して狼藉を働くフランス兵11人を射殺。


激怒したフランスは土佐藩の指揮官並びに隊員全員の処刑、15万ドル(83万フラン)の補償金、朝廷の代表並びに土佐藩主による謝罪などを要求。


新政府は全面的にこれを受け入れ、隊長ら指揮官4人の切腹を決めたものの、どの隊士の撃った弾が当たったかなどわかるはずもなく、事情聴取をすると「発砲した」と答えたのが29人、「しなかった」と答えたのが41人。


さすがに29人全員は多すぎるので、発砲した者のなかから16人をくじ引きで選出し、合計20人を処刑することにしました。


最初は指揮官4人が切腹、ほかは斬首でしたが「上官の命令に従っただけなのに斬首とは納得できない。俺たちも切腹させろ」と猛抗議を受け、16人にも切腹が認められます。


事件三日後、処刑場は堺の妙国寺。


最初に座についた隊長の箕浦猪之吉(享年23)は一礼し、白木の四方を引き寄せ短刀を取ると、立ち会ったフランス士官を睨みつけ、こう叫びました。


《「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」》(『堺事件』森鴎外)


箕浦は腹をかっ捌くと、傷口に手を差し込み、むんずと腸を掴んで引き摺り出し、フランス人に向かって投げつけます。


介錯人が刀を振り下ろしましたもののこれが浅く、二の太刀で頸椎を断つも箕浦は「まだ死なんぞ!もっと切れ!」と声を張り上げ、三太刀目、凄まじい血煙があがり、ようやく首が落ちました。


こうして次々に呼び出されては切腹が繰り返されました。首が5mほど跳ぶこともあれば、介錯人が首を落とすのに七太刀かかることもあり、まさに地獄絵図。


――これが、噂に聞く切腹か。


未開の国の蛮習という興味もあって立ち会ったものの、あまりの凄惨さに震え上がったフランス士官は、あたふたと逃げるように帰ってしまったために処刑は中断。奇しくも処刑されたのは11人、死亡したフランス兵と同数だった――というものです。


ざっくりいえば、土佐藩守備隊の悲劇ながら、日本人の潔さと勇敢さを外国人に見せつけた事件。大和魂スゲエみたいな感じで語られることが多いようです。


事件のニュースがフランスに伝わると、前年に開かれたパリ万博でジャポニズムブームが頂点に達していたこともあり、極東の小さな島国はますますミステリアスだと衝撃が走りました。


キリスト教社会で自殺は罪ですから、誇りを持って自分で自分の腹を切る、しかもわざわざ苦しむ方法で……なんてまったく理解ができません。


「堺事件」の約30年後の1899(明治32)年、五千円札の新渡戸稲造(1862〜1933)は非キリスト教国の日本人=野蛮という欧米人の先入観を改めたいと、『武士道』(BUSHIDO The Soul of Japan)を出版、ハラキリの意味についても記しています。


のちにドイツ語、フランス語、ロシア語、イタリア語などにも翻訳され、世界的ベストセラーとなった『武士道』が欧米のインテリ層に向けたものとすれば、同じ頃、欧米の大衆を相手にした演劇でハラキリを披露したのが川上音二郎(1864〜1911)でした。


福岡に生まれた音二郎は、14歳で家を飛び出すと放浪生活の末、自由民権運動家となり、今でいう五七調のラップで政治を風刺する「オッペケペー節」を大ヒットさせます。


民権運動の取り締まりが厳しくなると、音二郎は日清戦争の戦地を取材し、それをもとにした報道性と娯楽性をもつ戦争劇を上演。火薬や照明を駆使した斬新な演出は歌舞伎を凌ぐ人気を博し、その新しい演劇スタイルは新派と呼ばれるようになります。


政治家を目指すも続けて2度落選。すると音二郎は一座を組織して欧米巡業の旅に出たのです。


アメリカでは全財産を持ち逃げされるなど紆余曲折があったものの、欧米興行は予想だにしない大成功を納めます。


当時、日本の芝居では女性は女形が演じるものでしたが、欧米では男が女を演じるのは不自然ということがわかり、音次郎は元芸妓である妻の貞に舞台に立ってくれるよう懇願します。


「セリフなんて言えやしないよ」と戸惑う貞に、「なあに、客は日本語が分からないんだから、詰まったらスチャラカポコポコでも何でも大丈夫だよ」と説得。


なんとも行き当たりばったりのドタバタ感満載ですが、こうして貞は日本の女優第1号となったのです。


どうせ、ドサ回り、見せ物的なキワモノ扱いだったんだろう?


……って思いますよね。ところが、かつて浮世絵がゴッホモネなど近代西洋絵画に多大な影響を与えたように、川上音二郎一座の日本的な演技、表情、発声法は、マンネリ化していた西洋演劇に新鮮な刺激を与えたのです。


なかでも貞は数多くの芸術家を魅了しました。


『狭き門』で有名な小説家アンドレ・ジッドは6度も劇場に通い、このように書き記しています。


《貞奴は彼女のリズミックな均衡のとれた昂奮によつて、我々が求めてゐながら、我々の舞台では見ることの出来ぬ、古代の大悲劇の神聖な感動を我々に与へてくれたのです》


《貞奴は絶えず美しい。絶え間ない、又絶え間なく増大する美しさです。彼女は死ぬときが、これ程の激しい愛情で取り戻された愛人の胸でまつすぐに固くなつて死ぬときが一番美しい》(『貞奴』アンドレ・ジイド)


大絶賛ですね。確かに今、貞の写真を見ても実に美しい。


他にも一座を観た若き日のパブロ・ピカソは貞のデッサンを描き、『考える人』の彫刻家オーギュスト・ロダンは貞にモデルを申し込んで断られ、作曲家のジャコモ・プッチーニは『蝶々夫人』がひらめき、ドイツ映画の巨匠フリッツ・ラング監督は無声映画『Harakiri』を撮ったのです。


「ハラキリのシーンが見たい」という要望は欧米各地でありましたが、最も熱心だったのがフランスでした。理由は「堺事件」にあると音二郎は断言しています。


――サァサァ、これが本当の日本のハラキリだよ!


新聞雑誌で読んだことしかないハラキリとはどんなものなのか? 興味津々の観客が劇場に押し寄せました。


大入りに気をよくしたパリの興行主は、できるだけ血を出して派手にだとか、女も腹を切れとか、立ったまま腹を切るのはどうだ、などリクエストがどんどんエスカレートしていきます。


「注文ということならこちらも商売だ。お望み通り、腹を切って見せましょう」。毒を食らわば皿までと、音二郎はバンバン腹を切ることに。


すると観客はさらに増え、1日2回の興行が3回4回となり、1週間の契約が4ヶ月のロングランという大ヒットとなったのです。


《刀を腹に突き立て、一文字に引き回し、血をさっととばして喉を引っ掻き、目を白黒させ、バッタリ倒れる。ここまでの数分間が、フランス人の最も喜ぶ芝居の山で、その拍手喝采は英米以上であった。のちには、拍手喝采くらいではまんぞくができないようで、満場の見物人がことごとく帽子を取って振るほどだった。こんなことはフランスが初めてである》


入場料を3倍にしても、立錐の余地もないほどだったといいます。


《パリは世界の流行の魁となり、またその中心となるという豪華で洒落た風流の地である。その国民はとてもやさしくおとなしく、そして話がうまく交際が上手である。文明の民はこのようにあるべきだと、日本人は羨望の目で見ていた》


今も昔もパリは花の都。面白いのは音二郎のここからの考察です。


《ところが、人心の裏側を見ると、やはりフランス革命の暗流がどこまでも滾々(こんこん)と流れていると思われる。すなわち、フランス国民は、どこまでも国王ルイ十六世を断頭台に上げた国民である》(『自伝 音二郎・貞奴』)


音二郎は自由民権運動の活動家でしたが、民主主義が内在する暴力性、残虐性をきちんと意識していたようです。


さて一方、日本において「堺事件」が広く知られるようになったきっかけは、1914(大正3)年に森鴎外(1862〜1922)が発表した小説『堺事件』だといわれています。


しかし、鴎外が依拠した資料は、切腹した11人を靖国に祀る目的で書かれた、多分に土佐藩士を持ち上げた形に脚色されたものでした。


そもそも堺に外国人の上陸が許されていることを知らなかった土佐藩守備隊の対応のまずさが事件の発端ですし、立ち会ったフランス士官も切腹に怯えて逃げ帰ったわけではなく、11人を処刑したところで切り上げたのも、新政府に恩を売るための計画通りの行動だったのです。


箕浦が自ら抉り出したはらわた、無念の思いは、はたして鴎外が描いたようなフランス人へ向けてのものだったのでしょうか。


攘夷!攘夷!と声高に叫び、幕府の対応を腰抜けだと突き上げ、外国人襲撃を繰り返していた倒幕勢力が政権を奪取したのが事件の2ヶ月前。


攘夷こそ正義と信じていた箕浦にとって、外国人排斥の実力行使を新政府から罪に問われるとは思ってもいなかったのかもしれません。


それがまさかの掌返し。


「堺事件」の2週間後、明治天皇に謁見するため御所に向かうイギリス公使ハリー・パークスが襲撃されます。これは新政府の「堺事件」の扱いに憤激した2人の浪士による断行でした。


襲撃は未遂に終わりましたが、犯人を斬り捨てたのが土佐藩の後藤象二郎というのも、なんとも皮肉な話ではありませんか。


犯人2人(三枝蓊、朱雀操)は見せしめのために晒し首となり、このパークス襲撃が最後の攘夷事件となりました。


さて、冒頭のイギリス人女性の発言ですが、関東でウナギを背開きにするのは蒸す過程で身が柔らかくなるので腹開きだと崩れやすいというのが理由で、ハラキリと結びつけるのは俗説と思われます。関東では魚の干物は腹開きが一般的ですものね。


ただ、ですよ。


西日本でありながら土佐の高知ではウナギの蒲焼きは背開きが主流です。それだけでなく干物もサバの姿寿司も背開きなのです。


不思議ですね。もしかして、「堺事件」の影響だったりして。


◎追記 刑罰としての切腹は1873(明治6)年に廃止された。


*参考文献
『堺事件』森鴎外(青空文庫)
『堺港攘夷始末』大岡昇平(中公文庫)
『英国外交官の見た幕末維新』A・B・ミットフォード(講談社学術文庫)
『フランス艦長の見た堺事件』B・D・トゥアール(新人物往来社)
『切腹 日本人の責任の取り方』山本博文(光文社新書)
『最期の日本史』本郷和人(扶桑社BOOKS新書)
『自伝 音二郎・貞奴』川上音二郎・貞奴(三一書房)
『川上音二郎欧米公演記録』倉田喜弘(ゆまに書房)
『マダム貞奴』杉本苑子(読売新聞社)
『アンドレ・ジイド全集13巻』アンドレ・ジイド(新潮社)

『老人と海』と孤独なゲーム。

今年3月に行われた第5回ワールド・ベースボール・クラシックの決勝「日本対アメリカ」戦の最終回、大谷翔平VSマイク・トラウトの対決にはしびれましたね。


野球の本質とは何か。アメリカの作家ジョン・アップダイクはテッド・ウイリアムズの引退試合観戦記にこう記しています。


《数あるチームスポーツの中でも、野球こそは、その優美な間断のある動き、白い姿で立つ佇む男たちをまばらに配した広大で静かなグラウンド、そしてその冷ややかな数学的側面も含めて、一匹狼を受け入れ、一匹狼という花を添えられるのに最も適しているように思える。それは本質的に孤独なゲームなのだ》


《我々の世代が目にした中で、かくも濃密にこのスポーツの痛切さを抱え込み、かくもたゆみなく、天性の技術を磨き続け、見ていて喜びに息が詰まるほどの集中力を持って、一打席一打席に持てる能力のすべてを注いだ選手は他にいない》(「ボストンファン、キッドにさよなら」)


いやあ、ホント、息が詰まりました。


WBC決勝戦が行われた「ローンデポ・パーク」はマイアミ・マーリンズ(カジキ)の本拠地でした……というわけで、今日はカジキのお話です。


カジキといえば、やはりアーネスト・ヘミングウェイ(1899〜1961)の『老人と海』でしょうか。


みなさんご存じ、巨大カジキと老漁師との戦いの物語です。


この巨大カジキ、原文には“marlin”としか書かれていませんが、何カジキだったか気になりませんか?


「マカジキ」と訳している本が多いのですが、「(一社)責任あるまぐろ漁業推進機構」のサイトにある鈴木治郎氏(旧遠洋水産研究所浮魚資源部長)のコラム「“老人と海”に出てくるカジキの種類について」に、なるほどという答えがありました。


巨大化するカジキには何種かあるものの、
マカジキ…………大西洋には分布しない。
シロカジキ………大西洋には分布しない。
ニシマカジキ……大西洋にも分布するが、1500ポンド(約680㎏)まで巨大化するとは考えにくい。
メカジキ…………大西洋にも分布し、巨大にもなるが、英語では“swordfish”で、“marlin”とは言わない。


《とすると、老人の釣り上げたカジキはクロカジキしかないのではないかと私は想像している》


ちなみに英語では死ぬ直前に体色が鮮やかな青になることから“Blue marlin”と「青」ですが、和名ではその後「黒」くなることから“クロカジキ”と呼ぶのだとか。


小説では、サンチャゴ老人は大海原でクロカジキと戦いながら、まるで神と対話するようにニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオ(1914〜1999)に語りかけます。


ベーブ・ルースが引退した翌年(1936)にデビューしたジョーは、走攻守三拍子揃った才能、人に苦痛や怒りを見せないタフぶり、エレガントな動きや着こなし、ファンや報道陣への紳士的な対応などで人々を魅了し、たちまちスーパー・ヒーローとなります。


しかも、ジョーはシチリアから移民してきた貧しい漁師の子どもですから、まさにアメリカン・ドリームの体現者。


《おれだってディマジオに笑われんようにしなきゃ》


《さっきの、サメの脳天への銛の一撃。あれをディマジオが見ていたら、感心してくれたかな》


《おまえはそもそもが、漁師になるために生まれたんだ、魚が魚になるために生まれたようにな。聖ペテロだって、あのディマジオの親父さんだって、漁師だったんだ》(『老人と海』)


次々と襲いかかる困難に、決してあきらめることなく、気力、体力、知力を振り絞って立ち向かう……これはサンチャゴであるとともに、「新移民」と蔑視されたイタリア系移民の最初のスターといってもいいディマジオに重なります。


《「だが、人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない」老人は言った。「叩きつぶされることはあっても、負けやせん」》


《「闘う」老人は言った。「死ぬまで闘ってやる」》(『老人と海』)


ディマジオはヘミングウェイの歳の離れた友人でした。


一緒にボクシングを観戦したときのこと、ジョーにサインを求めるチビっ子ファンに取り囲まれ、「おじさんも有名人なんだろ?」と少年に尋ねられたヘミングウェイは「ああ、ディマジオのお医者さんだよ」と答えたといいます。


《ディマジオはヘミングウェイが思い描いていたヒーローの条件を完全に満たしていた。ヘミングウェイの小説に登場する空想のヒーローたちは、プレッシャーの下でも優雅に振る舞う。感情をあらわにすることはなく、ひたすら行動によってのみ己を語る。ディマジオはまさにそういう種類のヒーローだった》(デビッド・ハルバースタム『男たちの大リーグ』)


満身創痍のジョーは1951年末に引退。翌52年、ジョーの跡を継ぐミッキー・マントルを軸に4連覇を目指すヤンキースと初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンが躍動するドジャースが激突するワールドシリーズ直前の9月に『老人と海』は出版されました。


カジキは長く尖った吻(ふん)を、バットのようにするどくスイングして獲物を叩き、弱ったところを捕食します。


あえて深読みすれば、巨大カジキ=偉大な打者です。そのカジキの壮絶な死……。


『老人と海』は引退した友人に向け、時が流れてもみんな君を忘れないぞと贈った讃歌とも読めるのではないでしょうか。


『老人と海』はヘミングウェイの生前に刊行された最後の作品になりました。


さて、ジョーの好敵手、冒頭にあげたボストン・レッドソックスのテッド・ウイリアムズ(1918〜2002)は野球とともに釣りをこよなく愛しました。


シーズンが終わると、フロリダの田舎町で3ヶ月半の釣り三昧。スプリング・キャンプが始まると釣りを封印して練習に励み、開幕を迎えるというルーティン。


バッティングと同様、釣りの研究も熱心だったテッドは、サンチャゴ老人には及ばないものの、400ポンド(約181kg)のカジキを釣り上げています。


テッド・ウイリアムズの通算成績(19年)=打率.344、521本塁打、1839打点。首位打者6回、本塁打王4回、打点王4回、三冠王2回、MVP2回。


ジョー・ディマジオの通算成績(13年)=打率.325、本塁打361本、1537打点。首位打者2回、本塁打王2回、打点王2回、MVP3回。


両者の記録を調べていて驚いたのが、選球眼を評価する指標BB/K(四球÷三振)の高さです。


あまり語られることのないBB/Kですが、パワーヒッターでありながら、通算成績テッド2.85、ジョー2.14。


この数字、現代のスーパースターはどうかというと、マイク・トラウト0.68*、大谷翔平0.42*、アーロン・ジャッジ0.52*。


歴代でもベーブ・ルース1.55、ハンク・アーロン1.01、バリー・ボンズ1.56、ミゲル・カブレラ0.60*ですから、2人の数字は異次元です。(*2022年までの数字)


ただ、2人の打席へのアプローチは異なっていて、ジョーがチームの主軸打者として、「ときにはボール球を打つ義務がある、四球だけでは不十分」と信じていたのに対し、テッドは「ボール球を打ち始めたらキリがない、悪球に手を出させたら投手の勝ち」という考えでした。


その結果ともいえるのが、ジョーの56試合連続安打、テッドの84試合連続出塁という大記録です。


オールスターゲームにテッドは16回、ジョーは9回選出され、ライバル2人は4度(41,42,47,49年)アメリカン・リーグの3・4番を担いました。


ともに球史に残る名選手ですが、所属チームの力の差は歴然でした。


ジョーが在籍した13年間でヤンキースは10回リーグを制覇し、ワールドチャンピオンに9回輝いています。


一方、テッドが在籍した19年間でレッドソックスがリーグを制覇したのは1946年の1度きり。そのワールドシリーズでもカージナルスに3-4で敗れています。


もう一つ、テッドがジョーとまるで違ったのは、その振る舞いです。


デタラメを書く新聞記者に唾を吐きかけ、汚いヤジを飛ばす観客ともしょっちゅう揉め事を起こしました。ネクタイが大嫌いで、頑固で安易な妥協をせず、帽子をとってファンに挨拶することさえ、芝居がかっていると拒否しました。


選手人生が終わる引退試合の最終打席。


テッドは3球目をフルスイングして満員のフェンウェイパークのスタンドにボールを叩き込むと、いつも通り笑み一つ浮かべず、うつむき加減にダイヤモンドを急ぎ足で一周します。


球場全体が狂喜の大歓声、カーテンコールを求める絶叫に包まれても、立ち上がることはありませんでした。チームメイトや審判にも促されましたが、「俺らしくない」と。


冒頭にあげた観戦記でアップダイクはこの瞬間を《神々は手紙に返事を出したりはしないのである》と記しています。


デビッド・ハルバースタムもこう書いています。


《インスタント有名人の多くがプラスチックの板から切り抜いたように薄っぺらく見える時代にあって、テッド・ウィリアムスは、良きにつけ悪しきにつけ、長所も短所もひっくるめて、際立っていた。ウィリアムスは、本物以外の何物でもないのだ》(『男たちの大リーグ』)


実はテッドは自伝のなかで『老人と海』について、ちょっとだけ触れています。


《私がかつて読んだヘミングウェーの「老人と海」だって、話はだらだらと続いているから、勘弁して聞いていただきたい》(『大打者の栄光と生活』)


ヘミングウェイの文章をだらだらだなんて、テッド・ウイリアムズにしか言えませんね。


*参考文献
『アップダイクと私』ジョン・アップダイク/河出書房新社
『老人と海』アーネスト・ヘミングウェイ、高見浩=訳/新潮文庫
『大打者の栄光と生活』テッド・ウイリアムズ/ベースボール・マガジン社
『バッティングの科学』テッド・ウイリアムズ/ベースボール・マガジン社
『男たちの大リーグ』デビッド・ハルバースタム/文春文庫

隅田川のシラウオと明治維新。

生シラス(カタクチイワシの稚魚)、シラウオ(白魚)、シロウオ(素魚)、ノレソレ(アナゴの稚魚)……春は透明な魚のオンパレードです。


からだが透明であれば捕食者に見つかりにくいのに、なぜ成長するにつれて色がつくのかというと、色素で防御しないと有害な紫外線にやられてしまうからなんですって。


そう聞くと、UVカットの日焼け止めクリームを塗ろうかって思いますね。


桜が咲き始めると「そろそろ終わりかな」と居酒屋の主人が出してくれたシラウオ。今日は「シラウオ」のお話をしましょう。


シラウオを最も漁獲しているのは小川原湖のある青森県で、全国漁獲量の約半分を占めています。次いで霞ヶ浦のある茨城県、そして宍道湖のある島根県と続きます。


早春のイメージのあるシラウオですが、小川原湖では4月〜6月の春漁と9月〜翌3月の秋漁があり、霞ヶ浦北浦では7月末〜12月、宍道湖は11月中旬から5月までと、全国的にはほぼ通年どこかで漁獲されているようです。


かつてシラウオは江戸を代表する魚でした。


月も朧(おぼろ)に白魚の 篝(かがり)もかすむ 春の空


佃島の漁師が夜の隅田川で篝火を焚きながら四ツ手網ですくい捕り、「御用」と書かれた漆塗りの箱の中に入れて、将軍家に献上していたと思っていたのですが、これは正確ではありませんでした。


佃島の漁師だけでなく、別に「白魚役」という漁師もシラウオを献上していたのです。


「白魚役由緒書」によると慶長6年(1601)、家康が鷹狩のときに浅草川(現 隅田川)で漁師がシラウオを献上したのがきっかけとなり、それ以降シーズン中はシラウオを毎日献上するように命じられ、褒美として毎年3両賜ったとあります。


「白魚役」には最もいい漁場である隅田川の浅草言問橋から河口まで独占的にシラウオ漁をする権利が認められ、そこには佃島の漁師も立ち入ることはできませんでした。「白魚役」には幕府から京橋小網町に屋敷も与えられています。


言うまでもなく佃島の漁師は、家康が入府のときに大阪から招聘した関東の漁師にはない卓越した漁労技術を持つエキスパート集団。なにかにつけて優遇された存在でした。


にもかかわらず、花のお江戸の一等地でシラウオを獲ることができなかったとは少々意外でした。


白魚役も佃島同様、冬〜春はシラウオ、夏〜秋は一般の魚を納入する任務を担いましたが、白魚役は30人にも満たなかったのに対し、佃島は400人以上と数で圧倒していましたから、当時の江戸の人々もシラウオ献上は佃島のお役目と思っていたようです。


「白魚役」とは何者だったのでしょう。


『佃島と白魚漁業』(東京都公文書館)では、大阪から移住してきた漁民ではなく、家康入府以前からいた江戸在来の漁師だろう、と推測しています。


理由のひとつが漁法の違いです。


《佃島の漁師たちは白魚をとるのに四ツ手網を使用するのに、白魚役の人々は建網を使用してとる。これは出身地の漁獲法の差異をそのまま持ち込んでいるとみてよいのではないだろうか》


「建網」とは長さ6尺(約1.8m)・幅4尺(約1.2m)の網を何枚か連ねて川に設置して魚群を誘導し、「サデ網」ですくいとるという漁法で、この漁法は幕府御用時のみに使用され、それ以外での使用は禁じられていました。


ならば佃島の漁師はどこでシラウオ漁をしていたかというと、主な漁場は中川と利根川(現 江戸川)でした。


漁場をめぐって、たびたび白魚役と佃島の間では揉め事が起きました。なんとしても隅田川で獲りたい、これが佃島の漁師たちの長年の悲願だったんですね。


ようやく「白魚役」の漁場よりも上流の千住大橋〜上豊島(現 北区豊島町)ならば獲ってもよろしいと許されたのは、百年以上も後の八代将軍吉宗の時代、享保6年(1721)2月のこと。大岡越前守の裁きで実現したといいます。


それから約150年後の幕末。


子母沢寛の『勝海舟』にこんな一節がありました。慶応4年(1868)、江戸に攻め入ろうとする討幕軍の大将・西郷隆盛との会談を前にした勝海舟の夕餉の描写です。


《元来、食物には、とんと気のない勝だが、白魚だけは余程好きだったと見えて、ちょっと舌へのせると、すぐこれは品川だ、これあ佃だ、これは、何処そこの場違いだねなどとよくいった。殊に、しょうがもわさびも、薬味はつけず、生醤油へちょっぴりつけては楽しそうに食べるのである。》


なんとも粋ですね。


味の違いがわかったかどうかは怪しいのですが、品川の台場あたりで獲れた川を遡る前の小さなシラウオは「ベラ」と呼ばれていましたから、これはサイズで区別がつきそうです。


さて、海舟と西郷との会談で無血開城となった江戸の町は、東京と名前を改められ、年号も明治に変わります。


明治維新で、シラウオを献上していた人々はどうなったのでしょうか。


なに、天皇家や太政官にシラウオを献上する役目をもらえれば、今まで通りやってけるさ、と考えた人もいたはず。


しかし、新政府の決定は「献上などいらぬ。税も免除されていたようだが、これからはちゃんと納めてもらうからね」でした。


さらに明治8年、新政府は日本全国の海面を国有化して、旧来の漁業に関する権利や慣行を一切チャラにし、そのかわり出願して許可を受ければ、誰でも漁業ができるとしました。


漁村間での抗争が激化、大混乱が起きます。そのため海面国有化は翌年に撤回されましたが、漁業の権利や慣行についての法整備は進められました。


課税に加えて漁場の独占権もなくなるなんて! 佃島の漁師は白魚役と組んで、「税金は納めますから、占有の漁場をお与えください」と嘆願書を東京府に提出。


するとゴタゴタに懲りたのでしょうか、「なるべく従来の慣習に従う」と実質的に江戸末期の漁業制度を継承する形で、暫定的に明治12年から5カ年間、隅田川など限られた3箇所で独占的にシラウオ漁をする権利が認められたのです。


白魚役が廃業し、権利が一本化されたことも佃島には有利に働いたようで、この権利は期日満了後も更新され、明治26年まで続きました。


明治14年(1881)には天皇家と徳川家への儀礼的な献上が復活します。


ここで、ふと疑念がよぎりました。


はたして明治天皇はシラウオを召し上がったのだろうか……。


というのも、日本文化研究の第一人者ドナルド・キーン氏によれば、明治天皇は生魚が大嫌いで、絶対に口にしなかったそうで、焼き魚も川魚は召し上がったものの、海の魚は食べなかったといいます。


汽水域のシラウオはどっちだったんでしょうね。


話を戻しましょう。シラウオ献上は復活したものの、明治期の急速な近代化に伴う工場や生活の排水による川の水質汚濁、港湾施設や月島をはじめとする海の埋立てにより、シラウオの漁獲量はどんどん減少していきます。


昭和の初めに隅田川で獲れなくなると中川、さらに多摩川からもいなくなり、戦後、昭和34年ごろには湾奥から姿を消してしまいました。


それでも献上の儀式は、築地市場でシラウオを仕入れるなどして続けられていましたが、他所からシラウオを仕入れていることを知った昭和天皇は、それは大変だろうからと献上をお断りになります。こうして昭和37年(1962)に天皇家への献上は幕を閉じました。


一方の徳川家は今年の1月、60年ぶりに当主が交代し、徳川家広さんが第19代徳川宗家となりましたが、今でも佃島からシラウオの献上は続いています。


《「白魚は、三河豊川の前芝が本場だが、おいら、あそこを通るはいつも時季はずれで、まだ一度も食えねえ。そ奴を食わずに、死ねるかねえ」》(『勝海舟』)


西郷隆盛との会談を前に弱音を呟いた海舟ですが、明治32年(1899)まで生きました。享年75。


最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」でした(諸説あり)


*参考文献
『佃島と白魚漁業』(東京都公文書館編集/東京都)
『東京都内湾漁業興亡史』(東京都内湾漁業興亡史刊行会)
『勝海舟』(子母沢 寛/新潮文庫)
『東京湾水辺の物語』(読売新聞社会部/読売新聞社)
『文学者が歴史を書く』(ドナルド・キーン/學士會会報839号)
『東京湾再生計画』(小松正之ほか著/雄山閣)

ホッケと満洲国、義経とジンギス・カン。

2022年下半期の直木賞受賞作『地図と拳』、お読みになりましたか? 満洲をめぐる殺戮の半世紀を描いたこの小説にホッケが登場するわけではないのですが、満洲から、ふと「ホッケ」を連想したので、今日はそのお話です。


今ではお馴染みのホッケですが、全国的に認知されたのは、居酒屋チェーンで「ホッケの開き」が定番となった1980年代半ばくらいでしょうか。


北海道では、戦前までニシンの卵を食べてしまう害魚という扱いでしたが、戦後の食糧難の時代に配給物資として、また、獲れなくなったニシンの代替品として広まったようです。


なぜ「ホッケ」という名前がついたのか。こんな伝説が残っています。


――昔、布教のため蝦夷地に赴いた日持上人が、親切にしてくれた地元の漁師のために法華経を読み、大漁を祈願した。すると見たことのない魚が大量に獲れるようになり、漁師たちはその魚を「法華(ホッケ)」と呼ぶようになった。


「南無妙法蓮華経」を唱える日蓮宗(法華宗)からのホッケ説ですね。


日持上人(1250〜?)は日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮(1222〜1282)の弟子のひとりですが、後半生は謎に包まれていて、蝦夷地に渡ったかどうかも定かではありません。しかし、蝦夷地からさらに樺太を経て中国大陸東北部に渡り、布教したともいわれています。


源義経にも似たような伝説があります。


義経は平泉では討たれずに蝦夷地へ逃れたとか、蝦夷地から中国大陸に渡ったという義経北行伝説。


なかでも大陸へ渡り、遊牧民を統一してモンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハーンとなったという「義経=ジンギス・カン(成吉思汗)」説は現代でも根強い人気です。


伝えられている生没年は源義経が1159〜1189年、ジンギス・カンが1162〜1227年とほぼ同時代。2人が実は同一人物だったというのは、奇想天外ですが、なかなか魅力的なストーリーです。


日持上人や義経が大陸に渡ったという逸話が、爆発的に盛り上がったのは大正時代〜昭和初期。流れを追ってみましょう。


江戸後期、樺太の調査に赴いた間宮林蔵が、国禁を破って海を渡り黒龍江(アムール川)河口域を調査したとき(1809年)、幾つもの部族が「大昔、和人の武士がやってきて中国の王になった」と異口同音に語るのを聞き、「義経が中国で支配者になったというのは、あながち絵空事ではないのかも」と驚いています。


同時期、日本に近代医学を広めたドイツ人医師・博物学者のシーボルトも、著作『日本』で「義経=ジンギスカン説」に触れています。


明治維新を経た1879(明治12)年。のちに伊藤博文内閣で国務大臣などを務めた末松謙澄(博文の娘婿)が英国のケンブリッジ大学留学中に書いた論文が『The identity of the great conqueror Genghis Khan with the Japanese hero Yoshitsuné』(日本の英雄義経と偉大な征服者ジンギスカンの正体)


「日本を極東の小国と侮ってはいけないよ。欧州を震え上がらせたモンゴル帝国を築いたのは、我が国の英雄、源義経公であるぞ」といった感じでしょうか。


論文は6年後、『義経復興記』として邦訳されました。


時はまさに野望渦巻く帝国主義の時代。


日本も日清戦争(1894〜95)、日露戦争(1904〜05)、日韓併合(1910)、第1次世界大戦(1914〜1918)、シベリア出兵(1918〜22)……、おびただしい血を流しながら、台湾、朝鮮半島、中国大陸東北部と急速に領土を拡張していきます。


空前の「義経=ジンギス・カン」ブームが起きたのは1924(大正13)年のこと。きっかけは小谷部全一郎が著した『成吉思汗ハ源義経也』でした。


この本は、源義経汗をモンゴルでは「チン・キ・セー・ハーン」と発音することなど、語呂合わせによる推理も多く、歴史学者、言語学者たちはこれを全面的に否定しました。しかし、現地調査をしてから批判せよと小谷部は反撃します。


小谷部はフィールドワークをするために、50歳のときにわざわざ陸軍省文官試験を受け、通訳官として東シベリアに赴任しているんですね。


そこで小谷部は、満洲族が「元」「清」と、漢民族を征服して国を興すことができたのは、満洲族のリーダーのルーツが日本武士だからであると確信しました。


のちに小谷部はラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の写真を見て、こう断言しています。


《満洲の執政溥儀氏の容貌を見るに、色白くして顔は細長く無髯で、どこか古書に伝えられている義経公の風貌に似て居るところがある》(『義経と満洲』


小谷部って、なんか胡散臭くね? 


小谷部の自伝によれば、満洲に興味を抱いたのは、やはり『義経復興記』の影響で《アイヌの人たちの間で働くことに身を捧げ、彼らを惨めな孤立居住区から、満州かシベリアのどこかへ移して、その広大な未知の大陸に、新しい王国を作ろうと決心》して、16歳で家を飛び出し、単身北海道に渡り、アイヌと共に暮らし始めたといいますから、行動力は半端ではありません。


かなりぶっ飛んだ人生を送った人ですが、小谷部は義経とともに日持上人にも触れています。現地調査をしていたときのこと……。


《朝早く起きて外に出て見ると我が國の日蓮宗で叩く様な太鼓の音がするので、近寄って見ると、土人がそれを叩いてお経を読み、佛を念じて居る》ので、尋ねると、《昔此の土地へ三人の日本僧が来て佛教を傳え》たという。


おそらくこの僧は《日本を発足して蒙古に入り、其の消息を断った日蓮六高僧侶の一人、日持上人であらふ》……と推理しています。


小谷部だけでなく、このころ高鍋日統という僧侶や中里右吉郎という歴史家も、樺太や満洲で日持上人の痕跡を発見したと報告しています。


満洲は遠い異国などではなく、我が国ゆかりの地なのだという壮大な物語に、鬱屈した日々を送っていた人々は高揚したのではないでしょうか。


当時の日本は慢性的な不況を抱え、1920年「戦後恐慌」、1923年「震災恐慌」、1927年「金融恐慌」と、深刻な経済危機がたびたび起きていました。


そこへ米国の株価暴落を端緒に世界大恐慌が勃発(1929年)


生糸や綿織物などの米国向け輸出に依存していた日本は、最悪のタイミングで金輸出を解禁したことも重なり、経済が壊滅。大量の失業者が溢れました。


しかも東北地方を大寒波が襲い大凶作。さらに三陸大津波、北上川の氾濫と災害が相次ぎ、多くの人が餓え、赤子の間引き、娘の身売りが常態化……。


一方、財閥はというと金輸出再禁止を見越した円売りドル買いを進め、為替差益でボロ儲け。政界は汚職事件が頻発し、国民の政治不信が高まります。


政府は何をやっているのだ、と国民が苛立つなか……。


1931年9月、満州事変。翌年3月、新国家「満洲国」の独立宣言。


関東軍の暴走でしたが、困窮していた国民は満洲国建国に熱狂しました。これで、どん底から抜け出せるかもしれない……。


こうしてみると、義経や日持上人らが大陸に雄飛するロマンは、その真偽はさておき、多くの血を流して得た満洲の権益を守ることの正当化、あるいは他国に踏み込む不安のようなものを払拭するためのストーリーとして利用されたともいえます。


国内では1932年「血盟団事件」「五・一五事件」、1935年「相沢事件」、1936年には「二・二六事件」と、続けざまに要人を狙ったテロ事件が起きます。


これらを鎮圧し、権力を掌握した軍部が言論・思想統制を強めると、1937年には議事堂前などで「死のう、死のう」と叫びながら割腹を図る「死のう団事件」が発生し、社会に衝撃を与えました。


「満洲事変」の石原莞爾、「血盟団事件」の井上日召、「二・二六事件」の北一輝、「死のう団事件」の江川桜堂。


これらの事件の首謀者には共通点があります。


急進的右翼=国家神道の狂信者とつい考えがちですが、彼らはみな熱心な日蓮宗(法華宗)信者でした。


日蓮の教えをざっくりいえば「あの世は極楽とか、ヌルいこと考えていちゃダメ。正しい行いをすればこの世を極楽にできる。あきらめずに行動しよう」というエネルギッシュなものです。


この時代を生きた宮沢賢治もまた「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と考える熱心な日蓮宗(法華宗)信者でした。


今も多くの人に愛されている国民的作家・宮沢賢治とテロやクーデターの首謀者が同じ信仰というのは、なんとも奇妙な感じです。


「イーハトーブ」という理想郷を描いた宮沢賢治と、「満洲国」に五族協和のユートピアを託したといわれる石原莞爾の思いは同じものだったのでしょうか。


1932年、関東軍の会議室で開かれた満洲国建国四巨頭会議の記念写真の背景には、「南無妙法蓮華経」と書かれた大きな幕が掲げられています。奇しくも会議が開かれた2月16日は日蓮の誕生日。


未曾有の災害や飢饉が頻発した鎌倉時代に、蒙古襲来を予言して殺されそうになった日蓮。それから約700年後、熱心な日蓮信者が満洲国を建国したわけです。


1936年に「満洲農業移民百万戸移住計画」(20年間で500万人の日本人を満洲に移住させる計画)が国策となると「拓け満蒙、行け満洲へ!」のスローガンのもと、動員のような形で移住が押し進められました。


しかし1937年に日中戦争が起きると戦況はドロ沼化し、最終的にはソ連軍の侵攻もあり、のべ約27万人の満蒙開拓団のうち約8万2000人が亡くなったといわれています。


満洲国とはなんだったのでしょう。


いやはや、ホッケ=法華経説から壮大な話になってしまいました。さて、みなさんは義経=ジンギス・カン説、信じますか?


*参考文献
『義経と満洲』(小谷部全一郎/厚生閣書店)
『ジャパニーズ・ロビンソン・クルーソー』(小谷部全一郎/皆美社)
『義経伝説をつくった男』(土井全二郎/光人社)
『日持上人の樺太布教説をめぐって』(井澗 裕/境界研究No.6)
『イーハトーブと満洲国』(宮下隆二/PHP研究所)
『化城の昭和史』(寺内大吉/毎日新聞社)
『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子/岩波新書)

目黒のサンマ、
鎌倉のカツオ。

目には青葉 山ほととぎす 初鰹


このシーズンになると必ずニュースなどで引用される、誰もが耳にしたことのある有名な句です。


この句を詠んだ山口素堂(1642〜1716)は甲斐国、今の山梨県の出身です。山に囲まれた海のない国出身の俳人が詠んだカツオの句が、300年後の今も愛され続けているのです。


素堂は20歳のときに家業の造り酒屋を弟に譲り、江戸に出ましたから、カツオを見たのは大人になってからと思っていたのですが、調べてみると実家があったのは今の甲府市中央町。


となると、子どもの頃からカツオに親しみがあったのかも知れません。中央町の江戸時代の地名は魚町。魚市場があった町なのです。


魚市場があったとはいえ、海から離れた山の中。鉄道も車もなかった江戸時代、並んでいたのは地元の川魚や湖の淡水魚じゃないの? と思われるかもしれません。


しかし、昔から吉原(現在の富士市)から甲府を結ぶ「中道往還」という流通ルートがあり、甲府には沼津など駿河湾で水揚げされた魚が一晩で運ばれてきたといいます。気温の低い標高が高い山道を通るため鮮度が保たれ、夏でも駿河湾で獲れた魚を生で食べることができたのだとか。


となると「目には青葉」の句から受ける感じはまるで違ってきます。


周りを囲む山々も青々としてきて、田植えを告げるホトトギスの鳴き声がこだましている。沼津からはカツオも運ばれてきたころだろう……と、遠く離れたふるさとの初夏の景色を懐かしむ句のようにも読めます。


初鰹というと、素堂のこの句と、歌舞伎役者が初鰹を1本3両、今の10万円くらいで買ったといったバブリーな話がごっちゃに語られることが多いのですが、熱狂的な初鰹バブルは明和・安永(1764~1781)から文化・文政(1804〜1830)の時代。素堂が死んだあとのことですから、素堂が句を詠んだころは初物で高かったとはいえ、バブル期ほどではなかったと思われます。


松尾芭蕉(1644〜1694)と友人として親しく交流した素堂。芭蕉にも
鎌倉を生きて出でけむ初鰹」とカツオを詠んだ句があります。


「鰹・堅魚・松魚」とも書くカツオ。ホトトギスも「時鳥」のほかに「不如帰、杜鵑、杜宇、蜀魂、田鵑」といろいろな漢字表記があります。「子規」と書いてもホトトギス。


結核を患った正岡升(のぼる)青年は、自分を血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスに喩え「子規」という雅号をつけました。正岡子規(1867〜1902)にも
鎌倉は堅魚もなくて小鯵かな」という句があります。


「目黒のサンマ」ならぬ「鎌倉のカツオ」ですね。


鎌倉のカツオは『徒然草』にも登場します。


《鎌倉の海に鰹といふ魚は(中略)年寄りの申し侍りしは、この魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。(中略)かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。》(『徒然草』第百十九段)


鎌倉の年寄りが言うには「ワシが若かったころは、鰹なんて立派な人が食べるもんじゃなかった」。そんなもんを偉い人も食べるようになったのは世も末だから……といった感じでしょうか。


実際、流通ルートができて、海の魚や貝を食べる地域が沿岸域以外にも拡大したのは、著者の吉田兼好(1283?〜1352?)が生きた鎌倉時代末期です。


鎌倉時代末期も地震や疫病で、多くの人が苦しみました。このコロナ禍、私たちもカツオを食べて元気にのりきりたいものです。

東日本大震災から10年。
三陸の漁民を救ったワカメ。

生ワカメを熱湯にくぐらすと、褐色からさっと鮮やかなグリーンに変わります。これには子どもたちも大喜び。生ワカメのしゃぶしゃぶは、見た目にも楽しいエンターテインメント鍋。このシーズン、ぜひ家族で味わって欲しいものです。


さて、このワカメ、95%くらいは養殖ものですが、「養殖」と書かれたワカメは見かけませんね。


これは、JAS法で「養殖」は、出荷するまでにエサを与えた水産物と規定されているからで、エサを与えないワカメは「養殖」表記の必要がないのです。


近年のワカメ養殖では岩手県と宮城県が生産量日本一の座を争っています。「三陸わかめ」がワン・ツーで、3位が徳島県の「鳴門わかめ」。国産ワカメの約8割がこの3県で生産されています。


天然のワカメ(コンブも)は外海の岩や礫の海底に生育するので、湾内で生育するのはわずかです。戦前、漁民は岩場を掃除したり、新しい石を沈めたりして増産に努めましたが、うまくいきませんでした。


ワカメやコンブの種を採苗し、筏(いかだ)を使って効率的に生産するという養殖方法を確立したのが海藻養殖の父・大槻洋四郎(1901〜1981年)です。


この養殖法により、海藻の生産作業は簡単かつ安全となり、収穫量も増え、しかも良質な製品を生産できるようになりました。私たちがワカメやコンブを日常的に食せるようになったのは彼のおかげといってもいいでしょう。


明治34年、宮城県に生まれた洋四郎は、北海道帝国大学で学び、昭和4年から中国・関東州庁水産試験場に勤務しました。そこで沿岸の生物調査をしていると、本来、中国には生育していないはずのコンブが、大連沖の孤島の一部に生息していることを発見します。


これは日本の貨物船が北海道から運んできた木材にコンブの種苗が付着していて、それが繁殖したものと思われますが、これを見た洋四郎は、養殖が可能なのではないかと考え、函館からマコンブ、ワカメを済州島から入手して研究を進め、世界で初めて養殖法を確立させました。


しかし、時は激動の時代。中国で暮らす洋四郎を取り巻く環境は激変します。


昭和20年、日本降伏。中国大陸は国民党軍、共産党軍、ソ連軍が入り乱れ、洋四郎は難を逃れるために中国各地を転々とします。しかし、ついに山東省の寒村で病を患い、倒れ、重篤な状態に陥りました。


洋四郎、危うし!


一方そのころ、覇権を掌握した共産党政府は、海藻養殖の研究を進めようと、実績のある洋四郎のゆくえを追っていました。この探索のおかげで、瀕死の状態で発見された洋四郎は、寒村から50キロほど離れた病院へと運ばれ、運よく一命をとりとめます。


なぜ共産党政府が海藻養殖に力を入れていたかというと、コンブやワカメなどに含まれているヨウ素(ヨード)不足が引き起こす病気に、中国は昔から悩まされていたからです。


ヨウ素が不足すると甲状腺の機能が低下し、肌荒れ、冷え性、肥満、精神機能障害などさまざまな症状を引き起こします。妊婦の場合、流産と死産のリスクが増し、胎児の成長が遅れ、脳の発達に異常が現れることもあります。


このため中国は大昔から薬として海藻(主にコンブ)を日本から輸入していました。


回復した洋四郎は中国人技術者の指導・育成に努め、その結果、現在では中国のほとんどの沿岸で海藻養殖が行われるまでになりました。洋四郎がまいた種は大きく育ったのです。


昭和28年、中国人技術者の育成に目途が立った洋四郎は、24年間の中国生活を終え帰国します。このとき洋四郎51歳。


帰国後は、宮城県登米に居を構え、同県女川においてワカメの養殖法と塩蔵法の改良に取り組み、チリ地震津波で被害に遭うなど苦労を重ねながらも、日本各地の漁村を巡り歩いてはワカメ養殖の技術を指導し、その普及に努めました。


昭和56年3月、洋四郎、永眠。海藻養殖に一生を捧げた人生でした。


洋四郎は「自分は金儲けが本意ではない。より多くの漁民が養殖によって豊かになれば、自分の使命目的は達成される」と周囲に話していたといわれています。


洋四郎が亡くなってから、ちょうど30年後の平成23年3月11日。東日本を大地震が襲います。多くの人が亡くなり、三陸の漁師は壊滅的な被害を受けました。


津波ですべてが失われ、呆然とする日々。そんななか、材料も人手もかけずに取り組むことができ、しかも成長が早く、まとまって収穫できるワカメの養殖は、生きる希望を失っていた漁師のやりがいとなり、その収入は再起の大きな助けとなったそうです。


大槻洋四郎の技術は、ここでも多くの人を救ったのです。


震災から10年。あのとき、みなさんは、どこでなにをしていましたか? 春の風物詩、生ワカメを味わいながら、思い出してみませんか。

サケ・サンマに代わる秋の味覚か?

天然ブリは全国各地域で漁獲されますが、地域によって漁法が異なります。


東シナ海や日本海の山陰沿岸域では巻き網が中心ですが、北陸以北は定置網が中心です。一方、太平洋側では東北の三陸沿岸は定置網、常磐から房総では巻き網で漁獲しています。


漁獲量が多いのは長崎、島根、千葉、北海道、鳥取の順です。


ブリは基本的に南方系の魚で、主な産卵場は東シナ海。春に生まれた稚魚は流れ藻の周辺に暮らしながら、海流とともに北上します。


その年の冬には40cmほどの大きさになると、2歳くらいまでは沿岸域を回遊し、3歳を過ぎると南下して生まれ故郷の東シナ海に戻り産卵。その後、再び北上します。寿命は約7年といわれています。


近年、注目を集めているのが北海道のブリです。


というのも北海道のブリ水揚げ量の変化を10年ごとに見てみると、1969年が217トン、79年297トン、89年114トンでしたが、99年に1005トン、2009年1169トンと増加すると、2011年以降は7000トン~1万2000トン*も獲れる一大産地に激変したのです。


ただ、大漁を喜んでばかりもいられません。


北海道では秋にサケの定置網漁が始まりますが、近年は本来獲れるべきサケが獲れずに、今まで獲れなかったブリが大量に網に入ってしまうのです。


しかも、北海道民にとって南方系の魚であるブリは馴染みが薄く、伝統的な食習慣もないので、せっかく獲れてもいい値がつきません。


大消費地の首都圏に送っても、北海道産ブリのイメージがないので売りにくい。ブリは元来、九州北部・中国・北陸地方でよく食べられている魚ですが、西日本でもブリは豊富に獲れます。


そこで、なんとか道内の需要を拡大しようと、函館では「ブリフェス」を開催。新たな「ご当地グルメ」の開発に取り組んでいます。


でも、ですよ。


今から約5500年前を思い出してください。三内丸山遺跡(青森県青森市)から発掘された魚介類の骨で、一番多く見つかるのはブリの骨です。みんな忘れてしまっていますが、大昔は北でも食べていたのです。


現在、三内丸山遺跡は海岸線から5kmほど内陸に位置し、それほど海に近いわけではありません。しかし、縄文時代は今よりも2〜3℃気温が高く、氷河期にできた北半球の巨大な氷床が融けだして海面が上昇していたため、三内丸山遺跡のすぐ近くまで海が入り込んでいたのです。


ここ10年の北海道でのブリの大漁は、地球温暖化にともなう海水温の上昇と関係があるとみられています。このまま温暖化が進むと、不漁が続くサケ・サンマの代わりにブリが北海道の秋の味覚の代表になるかもしれません。


今夜あたり、ブリをおかずに、縄文時代に想いを馳せ、地球温暖化問題を考えてみてはいかがでしょう。


*漁獲データは「北海道水産現勢」より

お正月は何といってもめでたい「鯛」

お正月はもとより、結婚式、お食い初めなど、おめでたい席に欠かせないのがマダイです。脂肪が少なく、クセのない上品な味とほどよい歯ごたえという美味しさに加え、体色も鮮やかなルビー色に輝いていて、実に縁起物にふさわしい魚です。


味も見栄えもよいマダイは古くから朝廷や幕府への貢ぎ物として扱われてきました。鮮度落ちも比較的遅い魚なので、使い勝手がよかったというのもひとつのポイントでしょう。


大相撲でも優勝力士が大きなマダイを持ち上げ、記念撮影をするのが恒例です。あのタイは相撲協会から提供されるものではなく、優勝の可能性がある力士の所属する部屋が、それぞれ全国の後援者に声をかけて、立派なタイを調達しているのだとか。


優勝争いがもつれると、日の目を見ないタイもいますが、いずれにせよ、みなさんで美味しくいただくそうです。


ご存じのように日本の西と東では、食文化は大きく違います。タイは西日本、とくに瀬戸内、四国・九州で重宝される傾向にあります。では、タイを最も多く食べているのは何県民でしょう?


2019年の総務省「家計調査」によると、県民1人当たりの消費量がもっとも多いのはダントツで佐賀県でした。遡って調べても、少なくとも2013年から連続、しかも2位をダブルスコア以上引き離すほどの消費量。佐賀県民はタイが大好きなのであります。


そういえば、佐賀を代表する祭り「唐津くんち」の曳山(ひきやま=山車のこと)のひとつはタイがモチーフでしたね。


日本でタイはブリに次いで多く養殖されており、天然の漁獲量の2倍以上の量が養殖生産されているのです。


「天然のほうが養殖ものよりも美味しくて安全」とよく耳にしますが、そもそも「天然」「養殖」と一括りにしてしまうのは乱暴な話で、「天然もの」といっても、産卵前の旬の時期と産卵直後の痩せたものではまるで味は違います。


昔は確かに、養殖魚は「脂っこすぎる」「病気予防のためにクスリ漬け」……と言われていましたが、技術は進歩し、品質も格段に向上しました。


そして、同じ「養殖もの」でもエサの工夫をし、生簀に入れる匹数を減らし、水深の深いところで、ストレスを与えないように育てたタイと、そうでないものとには、味に差があって当然です。


あるタイの養殖業者さんは、毎朝の餌やりの時間に「おはよう、元気か〜。愛しているよ〜♥」と大きな声をかけていました。タイの養殖期間は2〜3年。ブリの1年半、ヒラメの1年に比べると、はるかに長いので、自然と愛情も湧くのでしょう。


機会があれば、養殖タイの食べ比べ=愛情の深さの差を感じてみるのも面白いかもしれませんよ。

日本人が8割を食べている「マグロの王様」

師走になるとテレビを賑わすのがマグロ漁のドキュメンタリー番組。寒風吹き荒れる北の漁場で一攫千金を狙う海の男たちのドラマは、つい見入ってしまいます。


そして、お正月明けのニュースの定番が、東京中央卸売市場で開催される「マグロの初競り」。来年は一体いくらで競り落とされるのでしょうか。


毎年、年末年始に注目の集まるマグロですが、これはマグロのなかでも「王様」と呼ばれるクロマグロで、ほとんどが刺身や寿司に用いられる高級品です。


日本ではクロマグロ(本マグロ)、ミナミマグロ(印度マグロ)、メバチ、キハダ、ビンナガの5種類のマグロが流通していますが、世界で漁獲されるマグロ類のなかでクロマグロの占める割合は約1%にすぎません。そして、その8割を日本人が消費しているといわれています。


その貴重なクロマグロの最高級品といえば「大間のマグロ」。下北半島の大間がここまで知られるようになったのは、マグロ漁師の娘を主人公にしたNHKの連続テレビ小説「私の青空」(脚本:内館牧子、主演:田畑智子)の舞台になったことがきっかけです。


津軽海峡では例年8月ごろからクロマグロ漁が始まり、秋から冬に最盛期を迎え、この時期には100kgを超える大型のものが多くなります。


大間のマグロが超高値になったことで、津軽海峡を挟んで大間の対岸にある北海道・戸井のマグロの人気も上昇しました。戸井と大間は20kmほどしか離れていません。同じ海域で獲れるのですからマグロに変わりはないのですが、大間はほとんどが「手釣り漁」であるのに対し、戸井は「はえ縄漁」という漁法の違いがあります。


戸井のマグロの評価が高まったのは、水揚げ後の処理技術の高さからです。「戸井活〆鮪」のステッカーは高品質の証。同じく北海道の松前もはえ縄漁で、こちらの船上活き〆処理も高い評価を得ています。


魚は扱い方で味や見た目に大きく影響しますから、各港は独自に扱い方の厳しいルールを定め、ブランディング構築に細心の注意を払っています。


これら国産天然クロマグロの高級ブランドは、残念ながら、おいそれと口にできるものではありません。そもそも私たちの食卓にのぼるマグロはメバチ、キハダ、ビンナガがほとんどですし、マグロ類の半分は輸入ものです。


クロマグロはどこから輸入されているか、ご存じでしょうか? 正解はトップがメキシコ、そしてマルタ、スペイン、トルコ、クロアチア、モロッコなど地中海沿岸の国々が続きます。


クロマグロというと冬の海のイメージが強いせいでしょうか、温暖そうな国から送られてきているのが、やや意外かもしれません。


クロマグロは資源・保護管理のため、正規許可船リストに登録されている漁船、ならびに正規リストに登録されている養殖場から出荷されたものでなければ、輸入は認められません。


お店などでよく見かける「国産本鮪」というコピー。なんとなく“日本で漁獲された天然のクロマグロ”と勘違いしがちですが、国内の漁獲量と養殖生産量、つまり天然と養殖の割合はというと、4:6。国産クロマグロの約6割は養殖ものなのです。


かつては高嶺の花だったトロが、比較的手が届くようになったのには、養殖技術の発達があります。


日本は日本近海がクロマグロの主要な産卵地域ということもあり、ひき縄漁などで捕獲した100〜500gの幼魚を生簀で2〜3年飼育して、30〜50kgサイズになったところで出荷する「長期養殖」がメインです。たっぷりエサをあたえるので生簀のマグロは天然の2〜3倍のスピードで成長します。


一方、海外では20〜60kgのクロマグロをまき網で捕獲し、6〜7ヶ月生簀で飼育し、太らせてから出荷する「短期養殖」が盛んです。十分にエサをあたえると脂ののったトロの部分が多くなり、商品価値がぐんとアップするのです。


長期養殖が主流の日本でも、京都府の伊根、島根県の隠岐などでは短期養殖をしていて、近年、このクロマグロが市場で高く評価されています。機会があれば、是非、この「伊根マグロ」「隠岐マグロ」も味わってみてください。

人類の繁栄はサケが支えた……!?

サケの仲間にはベニザケ、カラフトマス、キングサーモン、ギンザケ、ニジマスなどいろいろな種類がありますが、日本の河川に遡上するほとんどは「シロザケ」です(2番はカラフトマス)。


ただ、シロザケという呼び方はあまり馴染みがないかもしれません。一般的には「秋鮭(アキザケ)」「秋味(アキアジ)」でしょうか。季節外れの春から夏にかけてとれるシロザケは「時不知(トキシラズ)」「時鮭(トキザケ)」とも呼ばれます。


サケの漁獲量の約80%は北海道で、2位の岩手(約10%)を大きく引き離してダントツです。


では、私たちが普段食べているサケは、日本の川で生まれ、ベーリング海〜アラスカ湾を回遊し、元気よく生まれ故郷に戻ってきたシロザケかというと、そうでもありません。日本のサケ市場の半分以上は、海外から輸入された養殖のサケが占めているのです。


世界中でサケの養殖は年々盛んになっていて、現在は天然の漁獲量の2倍以上の量が養殖されています。なかでもノルウェーとチリが両横綱で、世界のサケ養殖生産量の約80%のシェアを占めています。


もともとサケは北半球にしか生息していませんでした。南半球のチリが養殖を始めたのは1970年代。現在では南半球のニュージーランドやオーストラリア、南アフリカのレソト王国などでもサケは養殖されています。


種類でいうと、タイセイヨウサケ(アトランティックサーモン)が最も多く養殖されていて、次いでニジマス、ギンザケ。ベニザケは飼育するのが難しく養殖されていないようです。


サケは「日本人がよく食べる魚」のトップに2010年から君臨していますが、サケの需要が拡大したのは世界の養殖生産量が天然漁獲量を上回った1990年代半ばからです。


養殖生産量が増えて供給が安定し、お手頃価格になったことに加え、おにぎりや弁当でサケを扱うコンビニエンスストアが急成長したことも需要拡大の要因です。


養殖サケの普及で変わったのが日本人の食習慣です。それまでサケといえば焼いて食べる塩鮭で、生で食べる習慣はありませんでした。ところが養殖されたサケには寄生虫がいませんから、寿司や刺身などサケを生で食べる機会が多くなり、次第に需要も増えていったのです。


「ごちそう」と呼ばれることの少なくなったサケですが、アイヌはシロザケを「カムイチュブ(神の魚)」と呼びます。


20万年前にアフリカで生まれた私たちの祖先(ホモ・サピエンス)は、急速に地球上の隅々にまで拡散していきました。ヒトはマンモスやカリブー(トナカイ)などの大型哺乳動物を追いながら、現在のベーリング海峡を越え、アメリカ大陸へ渡ったといわれています。


しかし、極北の地で大型の動物を狩ることは容易ではありません。厳しい自然環境にもかかわらず飢えずに生きのびることができたのは、毎年、浅い川で容易に獲れるサケが豊富にいたからではないでしょうか。


そう考えると、サケは偉大です。感謝して、ありがたくいただきたいものです。